紫苑の追憶

優しい嘘でも吐ければ良かったのだが、昔から嘘を吐くのは苦手だった。
気が利かないだけではない、刃のように尖った物言いはさぞ周りの者を辟易とさせてきたことだろう。当人にもその自覚はあった。
しかし何故か彼の周りから人が離れることはなかった。
歯に衣着せぬ言葉の中に隠し切れない優しさに気づいてしまうから。
東雲という男を知れば知るほど、人は彼から離れがたくなってしまうのだ。

東雲が『東雲』と名を変える以前の事。
彼はとある集落で生まれ、父はどこの誰ともわからず、母の手一つで育てられた。
集落の者達は次々に都もしくは他の集落へと移り住み、ついに母と子だけとなった。
母は以前より都への移住を望んでいたが、都で子を養いながら生活するほどの稼ぎを得られる見込みも無いため集落に留まっていた。
彼は母と共に在れば住む場所などどこでもよかった。二人で生きる安息の地が無いのであれば鬼に殺されても仕方がないのだと。そう思っていた。
しかし、母は違った。
集落で母子二人のみとなった三日後の事、母は彼を戸棚に押し込み、「良いというまで出てはいけない」と言い残し立ち去った。
彼は真っ暗な戸棚の中、ただひたすら母の言葉を待った。
時折荒々しい足音が聞こえ、音を立てまいと必死に震える体を丸めて耐えた。
しかし、母は戻らなかった。
あれからどれほどの日が経ったのか、以前は感じていた空腹も、体の感覚も失ってきた頃、戸棚の外に人の気配がした。
母が帰ってきたのだと、そんな筈はないことを理解しつつも彼は期待した。
期待して必死に声を出そうとしたが、渇ききった喉は音を出すことができない。

――母が行ってしまう。

枯れていたと思っていた瞳から、一筋涙が零れた。
それを口に含むことで何とか声を出そうとした。動かない体を何とか動かそうとした。

――行かないで行かないで行かないで行かないで行かないで行かないで。

彼の思考が暗闇に閉ざされようとした瞬間、一筋の光が差し込んだ。
開かれた戸棚の外から覗き込む優しい女性の顔があった。

母ではないことは分かっていた。自分が捨てられたことも分かっていた。
それでも期待せずにはいられなかった。迎えに来てくれると。
音の出ない喉を震わせ母を呼んだ。「母さん」と。
戸棚から彼を救い出した女性は少し困った顔をしたが、すぐに優しい笑顔に戻り彼の頭を撫でてやった。
彼の記憶はここでしばらく眠りにつく。
東雲が『東雲』と名を変える前。十二歳の時の事だった。

***

都までの道中、歩いている間に腕に抱えていた少女は眠ってしまったようだ。
彼女を抱きかかえたまま都の門の脇に東雲は腰を下ろしていた。
狩人は都への立ち入りを禁じられている為、東雲は門の外で情報屋・隠岐の到着を待っている。
都への出入りが許されている隠岐に彼女を託すため和泉に彼を呼ばせたのだが、
時間を持て余している間、古ぼけた過去を思い返していた。

「あんたの様に、優しい顔でもできれば良かったんだが……」

そう呟きながら己の眉間に指を当てる。彼の眉間には傷のほかに深く皺が刻まれている。到底人相が良いとは言えない。この顔で微笑んでやっても逆に少女に恐怖を与えてしまうだろう。東雲は己をよく理解していた。理解しているから、自分にできないことはしない。下手な嘘はつかない。微笑みなどしない。
それで嫌われることも仕方なしとしていた。

眉間に当てた指を離すと視線の先に黒い人影を捉えた。
黒い外套を纏った長身の男が小走りで駆け寄ってくる。

「待たせてすまないね」
「いや、急に呼びつけたのはこっちだ。応じていただき感謝する」
「和泉君から大体のことは聞いたよ、彼女の引受先を探せばよいのかな」
「よろしく頼む」

今も眠ったままの少女を隠岐に託そうと動くと、伏せられていた瞼がゆっくりと開いた。

「おや、目を覚ましたかね」
「…………あ……」

見知らぬ顔に驚いたのか、少女は咄嗟に東雲にしがみついてしまう。
思ってもない状況に東雲は心底困り果てた顔で凍り付いてしまった。

「いっそ君が面倒を見てやっては?」
「は?」

冗談とも本気とも分からない隠岐の言葉につい素っ頓狂な声が出てしまう。
が、すぐにいつもの調子を取り戻した。

「……この子は都で保護すべきだ」
「そうだね」

隠岐は度々人を試すような問いかけをする。
面倒を見てやるのは構わない、が、己は狩人だ。ずっと付いてやるわけにはいかない。そもそも村での暮らしは狩人以外の者にとってはあまりに日常とかけ離れていることだろう。苦労を強いるだけだ。

「この子の引受先への謝礼と生活にかかる費用は、全て俺の稼ぎから差っ引いてくれて構わない」
「……そこまでするぐらいなら、やはり君が引き取るべきでは?」
「しつこいぞ情報屋、俺の考えは変わらない」

「分かった」と、観念した様子の隠岐にほっとしていると、今度は抱きかかえる者に襟を引っ張られた。

「あの……さっきは申し訳ありません。もう下ろしていただいて大丈夫です」

“さっき”というのは、しがみついてしまった時の事だろう。
少女の足はもう震えてはいないし、よく見ると彼女は少し困った顔をしている。
それはそうだ、こんな顔に傷を持った人相の悪い男にいつまでも抱きかかえられていては不安だろう。
などと考えながらそっと下ろしてやると、少女は最初はふらついたもののしっかりと自身の両足で立つことができた。

「さきは驚かせてすまなかったね、歩けるかな?」
「はい」

引受先は隠岐が責任をもって探すこと、それに伴う費用については隣にいる彼が保証すること。これからについて説明を受け、少女はこれを素直に受け入れ、深く頭を下げた。

「何から何まで、ありがとうございます」

「後は任せる」と、東雲が立ち去ろうとする、少女は咄嗟に声を上げ、

「あの……!」

東雲の手を取った。

「私、律といいます。あなたの……あなたのお名前は……」
「名乗る名はない。そういう仕来りだ」
「あぁ……すまないね、狩人は都に住む人達の安全のために、名は明かせない決まりになっているんだ」
「……そうなのですね、また……会うことは?」
「できない」
「律君……狩人は名と同じ理由で都に立ち入ることができない。残念だけど……」

東雲のあまりにも素っ気ない態度に、隠岐が咄嗟に補足する。
そんな……と肩を落とし消沈してしまう少女・律を慰めるように隠岐は言葉を続ける。

「都に家族を持つ狩人も、名を変えて、家族と会うことができない日々を過ごしているんだよ。でも、手紙ぐらいなら届けることはできる」
「手紙……送っても……?」

震える律の問いに、東雲は答えることなく背を向けてしまう。
後は任せると言い残し、彼は歩き出した。
律はその背中に最後の言葉を贈った。

「どうか!息災で……!」

一度として振り返らない東雲の背中が見えなくなるまで律はその場を離れなかった。

「すまないね、不器用な男で……」

本当に……と、律は隠岐に頷き、そして微笑んだ。

「でも……優しい方です」

できないことはしない。下手な嘘はつかない。微笑みなどしない。
……期待をさせてはいけない。
律が都で幸せに暮らすためには、東雲という狩人のことなど忘れてしまうべきだ。
彼は見返りを求めない。一方的な優しさで強く人を突き放す。
はじめて彼と話す者はそれは辟易とするだろう。
しかし、一度心の内を覗いてしまうと……。

「……息災で」

幾度か掴まれた襟に手を添えながら、東雲は低く響く声で、少女の幸せを願った。

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