Unfamiliar WarmthⅠ

Novel2

「最悪だ……」
 ビリーは部屋の中で一人、吐き出すように声を漏らした。
 閉じた扉を背に座り込み、頭を抱えるように大きな体を丸めていた。
 自分の口元をそっと指でなぞると、彼の唇の柔らかな感触を思い出していた。

 ビリーの部屋を去った後、ジルとディアは二人の部屋までの通路を、ゆっくりと歩いていた。
「……何か、あったの?」
 不意にディアがジルに尋ねた。
 ジルはディアの問いかけにも反応が鈍く、どこか上の空だった。
 何より様子がおかしかったのはビリーだ。別れ際の彼は、いつも以上に挙動不審で言葉の歯切れが悪かった。
 その疑問に対し、ジルは短く「別に」と答えるだけだったが、その脳裏では数時間前の出来事を振り返っていた。

 
 ジルは普段、夢の内容は覚えていないことが多い。目覚めてすぐの焦燥感、体に滲んだ汗、こみ上げる吐き気――そういった、悪夢を見たという感覚だけが残っていた。
 だが、この日は違った。
 ビリーの部屋のソファで微睡んでいると、足元からぬるりとした感触を覚え、背筋を凍らせた。
「……はっ……いや、だ……」
 つま先から赤い手が次々にジルの身体を這い上がってくる。振り払おうとしても、体が凍りついたように動かない。やがて、その手の群れからジルのよく知る顔が飛び出した。
「と……さん……」
 その顔は赤い血を滴らせている。ジルが手に掛けたあの時と同じ姿で、父の手がジルの身体を弄った。触れた場所から焼けるような痛みがはしる。
「……あっ……い、痛い……やめ……とう……さ……」
 瞳に涙をためて懇願する。だが、屍の手の動きが止まることはなかった。必死に体を捩っても、無数の手に取りつかれ、逃げることは叶わない。
 血に塗れた父の手が、ジルの敏感な場所に触れる。かつての許されない行為を再現するように、我が子の躰を凌辱した。

 ――不意に、暖かい手が触れた。
「――っ」
 口が、塞がれていた。苦しい――息ができない。
「――はっ……っ」
 解放され、息を吸えたかと思えば、再び塞がれる。
 今度は、ぬるりと舌が唇の隙間からジルの舌に絡みついてきた。
 違和感に体を捩ると、手足が動いた。さっきまで取り付いていた無数の手が消えている。ジルはここでようやく、これは夢ではなく現実だと気付いた。
 呼吸を奪われ意識が朦朧としかけたジルは、覆いかぶさる男の体を思い切り蹴飛ばした。
 自由になった口が空気を一気に取り込んだ拍子にむせ返る。肩で息をしながら、突き飛ばした男を睨みつけた。
「……す……すまない」
 男は真っ青な顔を俯かせ、大きな体を縮こませて詫びてきた。
 ジルは目を凝らすと、それがビリーだと言うことに気が付いた。
「……あんた……っ」
 喉の奥が焼けるように熱くなり、胃液が逆流する感覚が襲う。
 吐き気を堪えきれず、えずくように蹲った。
 ビリーは慌ててジルに駆け寄るが、湧き上がる不快感はその場に全て吐き出されてしまう。
 
 ひとしきり嘔吐したジルは喉を押さえ咳き込んだ。その背中をビリーは優しくさすった。
「だ、大丈夫か?」
「……触るな」
 ジルは服越しに伝わる感触を不快に感じ、その手を払いのける。
 一瞬たじろいだビリーは、バツが悪そうに顔を逸らして吐瀉物の処理に立ち上がった。
 床の掃除にバタバタと行き来するビリーを横目で見ながら、ジルは奇妙な違和感を覚えていた。
 喉を押さえていた手がゆっくりと唇に触れる。さっきまで、ビリーの口が自分の口を塞いでいた。その行為の意味はジルには分からない。
 息苦しさに酸素を求め、覆いかぶさる体を突き飛ばした。けれど、不思議と不快感は無かった。
 背中を撫でた手の感触は気持ち悪いと感じるのに――。
 その後、二人の間に会話は無く、気まずい空気の中でディアの迎えが来るのを待つことになった。

 
 それから一週間が経ち、再びディアのメンテナンスの日がやってきた。
 ジルはビリーの部屋を訪れた。
 ビリーがぎこちなく迎えるのに対し、ジルはまるで何もなかったかのように振る舞っていた。
 前回と同じく、ビリーがデスクに向かって作業を始めると、ジルはソファに体をうずめた。
 薄暗い部屋の中、モニターの明かりに照らされるビリーの横顔をジルはじっと見つめる。
 態度にこそ出さないが、ジルは先週抱いた違和感をずっと気にしていた。
 体に触れられるのは気持ち悪いのに、唇が触れ合うことに不快に思わないのは何故なのか。
 もう一度、あの状況になればわかるだろうか――ジルは躊躇った。
 ジルはあの日からよく眠れていない。普段から不眠の気はあったが、あの悪夢に再び襲われるかと思うと、より体が眠ることを拒否した。
(怖い……)
 何年も、何年も、押し殺してきた感情が、ジルの脳裏を埋めていく。
 頭の中でそんなことを考えていると、不意にジルの身体を包むように布が落ちてきた。
 ジルが眠ったと勘違いしたビリーが、毛布を掛けたのだ。
 心地の良い柔らかな毛並みに身じろぐと、ふわりと覚えのある匂いが鼻をかすめた。
 煙草の残り香のように、少し煙たい――彼の匂いだ。
 その瞬間、眠気がジルを包み込み、瞼が静かに降りていった。

 
 目を開けると、そこは一面の血だまり――。
 足元の泥濘から、ブクブクと音を立て赤い手が伸びる。
 一瞬で夢の中だと理解する。
 無数の手はジルの身体の自由を奪い、やがて赤く染まる泥の中から父親が姿を現す。
 以前と同じ悪夢が繰り返される。
(それで、なんだっけ……)
 夢の中だというのに、熱と痛みが躰と脳を蝕んでいく。
 記憶が溶けてしまったかのように、この先が思い出せない。
 視界がぼやけ、恐怖、痛み、混乱……脳が熱に浮かされるような感覚に思考が奪われ――不意に、頭にそっと触れるものを感じた。
 大きな手が、ジルの頭を撫でていた。優しく、髪を解くように。
 奪われていたはずの思考が戻ってくる。ぼやけていた視界が鮮明になる。
 自由を奪っていたはずの手が、浄化されるように光の粒子となり消えていった。

 視線を上げると、ビリーのペールブルーの瞳が心配そうに見つめていた。
 その肩の向こうには、未だ血を滴らせた父がジルを見ている。
 これは夢か、現実か――判断がつかない。
「ジル、大丈夫か……?」
「――っ」
 声が出せない。呼吸が苦しい。
 ――まだ俺は夢を見てるのか? なら、さっさと覚めてくれ……!
 願った瞬間、脳裏にひとつの記憶がよみがえる。
 あの時、口を塞がれたことで悪夢から目を覚ました。
 それならば――縋るように、ジルは自らビリーと唇を重ねた。
 それは、ただ押し付けるだけの口づけだった。
 乱暴に頭を掴まれたビリーは、押すことも引くこともできず、その場に固まった。
 ジルの肩を抱くか抱くまいか。迷いが、その手を空中に縫い止めていた。
 いつの間にか、ビリーの後ろに見えていたはずの父の姿が消えていた。
 ――ああ、やっぱりそうだ。
 この行為に不快感はない。むしろ、浄化されたかのように、濁った視界が晴れていく。夢と現実の境界が、輪郭を取り戻していった。
 ――でも、何かが足りない。
 重ねていた唇を離すも、両手はビリーの頭を掴んだままジルは眉を寄せて考え込んだ。
 
 突然自分の唇を奪い、今も至近距離でしかめっ面をしているジルを前に、顔を赤くしたビリーは戸惑いの声を上げた。
「あ、あの……ジル?」
 不意にジルの夕焼け色の瞳と視線が合い、ビリーの心臓が大きく脈を打った。
「あんた、この前何をした?」
「……は?」 
「あの時、口ん中で……」
 ビリーは最初、何を聞かれているのか分からなかった。だが、すぐに一週間前に自分がやらかしたキスの件だと思い当たった。当時の自己嫌悪と罪悪感を思い出し、しどろもどろになってしまう。
「あ、あれは……その……」
「もう一回やってみろ」
「……は!?」
 ジルの思わぬ一言が瞬時に理解できず、少しの間をおいてビリーはひと際大きな声を上げた。
 あの日、悪夢にうなされていたジルに、自分の欲をぶつけてしまった。ビリーはあれから一週間ずっと頭を悩ませてきた。それを、もう一度やれと言う。他でもない本人が。
 当然その理由を聞きたくなる。
「な、なんで……?」
「……あんたと口をくっつけると、頭ん中のぐちゃぐちゃしたもんが消えるんだ。なんでかわかんねえけど……目が覚めるっつうか。俺はあれが、嫌いじゃない」
 ジルは順序だてて喋るのが苦手のようで、ビリーは頭の中で彼の言葉を簡潔に再構築した。
 つまり、『あんたとのキスは俺の頭をスッキリさせる。それが嫌いじゃない。だからもう一度したい』と――途端に、ジルに聞こえるのではないかと思うほど、鼓動が高鳴っていく。
 尚も、ジルはこちらをじっと見つめている。その唇を意識してしまう。
 彼が望むのなら――その一言が、ビリーの理性の壁をゆっくりと崩していく。
 生唾を呑み込み、ジルの肩にそっと手を添える。
 ビリーは彼の希望通りに舌を絡めたキスをした。以前よりも深く、愛おしさを込めて――。