『いつでもおいで』
あの日そう言われてから、ジルは彼の部屋を自由に出入りするようになった。
特務室まで案内を受ければ、あとはビリーの部屋の開錠コードを押すだけ。
部屋の開錠コードは四桁の数字。生体IDを持たないジルでも、四つの数字さえ覚えていれば簡単に入ることができた。
そうして今日も、ジルはビリーの部屋を訪ねていた。
「……おい、いないのか?」
部屋に入ると、ぼんやりと常夜灯が辺りを照らしてる。
いるはずの主の姿は見当たらない。
ふと、デスクの上に一枚の紙きれが置かれているのに気づいた。
手に取ると、そこには文字が書かれているが――
「……クソが。何書いてんのか、さっぱりわからねえ」
たった三行の短い文章。けれどジルには、それがただの複雑な線にしか見えなかった。
スラムで生まれたジルは、まともな教育を受けていなかった。
会話に必要な言葉の意味は理解できるものの、数字以外の文字の読み書きは一切できない。
紙を傾けてみたり。透かしてみたり。けれど、当然読めるはずもなく、諦めたジルはベッドに倒れ込んだ。
(……喉が、乾いた)
しばらくして、ジルは苛立ち混じりに部屋の中を物色し始めた。
ビリーはいつも、水をどこかから取り出してグラスに注いでいたはずだ。
だが、ジルには水もグラスもどこにあるのかが分からない。部屋の引き出しや戸棚を片っ端から開けていく。
ふと開けたデスクの引き出しの中に、ひとつの小さな物が目についた。
「指輪……?」
その輪の大きさから、女性用であることがジルでも分かる。
「何してるんだ!」
不意に掛けられた大きな声に、ジルの心臓がびくりと跳ねた。
振り向くとビリーが焦った様子でこちらを見ている。
速足でジルに近づくと、開けられていた引き出しをそっと閉めた。
「……デスクの引き出しは開けないようにって、書いておいたのに」
いつもとは違う、ひりつくようなビリーの声色に、思わず体がすくむ。だが、ジルは反論した。
「知るか、読めねえよ」
「……えっ」
この時、ビリーは初めてジルが読み書きできないことを知った。
「でも……前にそこで、本を読んでたんじゃ」
「読んでねえ、たまにある絵を見てた」
ビリーはその時の様子を思い返した。ジルは手に持った本をパラパラとめくっていた。パラパラと――
確かに、読んでいるにしてはページ送りが早い。振り返ってようやく気が付いた。
「す、すまん。これは、俺が悪かった」
「……喉が渇いた」
ぽつりと呟いたジルの言葉に、ビリーは慌ててグラスを用意する。冷蔵庫を指差し「その中から水のボトルを出して」とジルに頼んだ。
「……これか?」
「ああ、水は透明なボトル。色のついたボトルは酒だ」
ジルの両手には二つのボトルが握られていた。ビリーの回答を得て、ジルは色のついたボトルを元の場所に戻す。
用意されたグラスに水を注ぐと、ジルは喉を鳴らしながら一気に飲み干した。
「……ジルは、酒は飲めるのか?」
「飲んだこともねえが……多分無理だ。においで分かる」
ビリーには、もともとジルが酒に強いイメージがなかった。
実際、においだけで拒絶反応が出るのなら、体質的にかなり弱いのだろう。
対してビリー自身は、どれだけ強い酒を飲んでも酔ったことがない。
今後は飲むタイミングを考える必要があるかもしれない――そんなことを考えていると、不意にジルの顔が至近距離に迫る。
「……口が吸いたい」
「――は!?」
ジルの両手がビリーの顔を鷲掴みにすると、そのまま強引に、噛みつくように口を塞ぐ。
「ん……ちょっ……ジル!」
一瞬唇が離れた隙に、引きはがそうとジルの腕を掴んだ。だが、ジルは尚も縋るような目で訴える。
「頼む……」
そんな目をされると強く突き放すことができない。ビリーは小さく息を吐くと、そっと触れるように口づけた。そして、優しくジルに行動を求めた。
「ジル、少し口を開いて。そう、そのまま舌を出して」
ビリーの要求にジルは素直に応じていく。そして、再び唇を重ね、舌を絡めた。
「ん……っ」
絡めた舌を吸い上げると、ジルの喉からくぐもった声が漏れた。
舌は触れたまま唇をわずかに離すと、呼吸を忘れていたジルが小さく息を吸い込んだ。
そしてまた、深く唇を交わす。繰り返し、互いの唾液が交わるたびに水音が耳をかすめ、熱を生んだ。
ゾクゾクと体の芯から欲望が迫り上がるのを感じる。ビリーは唇を離すと、ジルの腰に手を滑らせた。
「――っ」
不意に、ジルが口元を手で覆い、背中を丸めた。
その様子を心配したビリーがジルの顔を覗き込む。
「ジル?どうした?」
「……きも……ち……わる」
ジルは顔を真っ青にして、今にも吐き出さんと涙目になっていた。
(まずい、夢中になりすぎた。キスが、しつこすぎたか……? 呼吸のタイミングも気にしてたのに――!)
「は……く……っ」
「えっちょ、ちょっとま――」
待てと言われて吐き気を抑えられるはずもなく、ジルはその場で勢いよく嘔吐した。
ビリーの服と、床を犠牲にして――。
汚れたパーカーを着替えたビリーは、急いで床に吐かれた吐瀉物を片付け始めた。
跡が残らないように水拭きしながら、ちらりとジルの様子を覗った。ソファに座るジルは、じっと黙ったまま動かない。
怒っているのだろうかと、床に向かいながらビリーは口を開いた。
「さっきは、その……すまない。加減できなくて……」
その謝罪に、ジルは少し黙り込んでから、静かに答えた。
「……あんたのせいじゃない。悪いのは、俺だ」
想定外の言葉だった。責められると思っていたビリーは目を見開きながら頭を上げる。すると、ソファの上で胡坐をかいていたジルと目がかち合った。眉間にしわを寄せ、言葉に詰まりながらジルは吐き気の原因を告白した。
「……においが、気持ち悪いんだ」
――においが、気持ち悪い。そのフレーズが、ビリーの頭の中でリフレインし稲妻がはしる。
そして、思わず自分の口を両手で覆った。
「く、臭いってこと、か……?」
ショックだった。今の今まで口臭を指摘されたことはなかった。それもそうだ、日常的に引き籠っていたビリーは、人と対面する機会が非常に少ない。膝から崩れ落ちてしまったビリーにジルは一言補足する。
「あ、いや……そうじゃねえ。煙草のにおいが」
「やっぱり、臭いのか……」
煙草のにおいだろうが何だろうが、臭いことには変わりないと、ビリーはますます落ち込んでいく。
そんなビリーに、ジルは「そうじゃない」と繰り返した。
「……親父が、煙草を吸ってたんだ」
その言葉に、ビリーはようやく顔を上げた。
ジルは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出すと、静かに語りだした。
「親父は……機嫌が悪いと、その煙草の火を俺に押し付けてきた。煙草だけじゃ、なくて。他にも……」
その声は、だんだんと先細り。胡坐の上に握りしめた手が震えている。
「だから、あんたが悪いんじゃなくて。俺が勝手に、そうなってるだけで……」
ジルの額から汗が流れ落ちた。呼吸が浅く、乱れ始めているのが分かる。
咄嗟に、ビリーは両腕でジルの体を包むように抱きしめた。
「わかった。わかったから……」
それ以上言わなくていいと、ビリーはジルの背中を子供をあやすように優しく叩いた。
ジルにとって、父親の過去がどれほど辛いものだったのかが見て取れる。
だが、それよりも――これ以上聞いてはいけないと思った。
これ以上、彼の過去に踏み込めば、きっと後戻りできなくなってしまう。
ビリーはその一歩を躊躇した。自身の保身のために。
やがてジルの呼吸は整い、震えは止まった。その後もしばらくの間、ジルはビリーの腕の中に納まっていたが、不意にもぞもぞと身を捩りだした。
「暑い」
その短い一言にハッとして、ビリーの腕はジルを解放した。
「ご、ごめん」
抱きしめる必要があっただろうかと、ふと自分の行動を疑問に思った。
踏み込んではいけないと自制しながら、心では彼の事を想い、手は彼に触れようとする。
――ひどい矛盾だ。
しばしの沈黙と気まずい空気が二人の間を通り過ぎる。その場に耐えかねたビリーは思い出したように声を上げた。
「そ、そういえば。ジルって何歳なんだ?」
「……あ?」
「歳だよ、年齢。今いくつだ?」
空気を換えようと咄嗟に振ったが、少し強引すぎただろうか。だが、ビリーにとって彼の年齢はずっと気にしていたことだった。
その唐突な問いにジルは一瞬戸惑うが、おもむろに両手の指を一本ずつ折り曲げ始めた。どうやら、自分の歳を数えているらしい。
上手く答えにたどり着かないのか、ジルは次第に苛立ち始める。
(そ、そんなに難しい質問だったか……?)
謎の緊張感が漂う。聞かなければよかったと後悔していると、ビリーの端末から通知音が鳴った。
「あ……ジル、ディアが来たみたいだ」
絶妙なタイミングで現れた彼女にビリーは心の中で感謝すると、そそくさとその場から逃げ出し部屋の外で待っていたディアを出迎えた。
「や、やあ。待ってたよ」
ディアはビリーの体越しに部屋の奥を覗き込む。
「ジルは起きてる?」
「ああ。今呼んでくる」
ビリーが振り返ると、ドタドタと足音を立てながらジルが駆け寄ってきた。
「いいところに来たな。おい、俺は今何歳だ?」
出し抜けに投げかけられた問いにディアは困惑する。
「急に何なの……?」
「ご、ごめん。ジルの歳が気になって、俺が話を振ったんだ」
「さっさと教えろ、お前なら分かんだろ」
二人の様子にディアは状況を察した。連絡を入れてから出迎えられるまで、いつもよりも随分と早かった。
ディアの連絡にビリーは、質問に答えられずに苛立つジルからこれ幸いと逃げ出した。といったところだろう。
急かすジルに「ちょっと待って」と、ディアは自身に記録されたデータを検索する。
5秒と経たず、検索結果から答えが導き出された。
「貴方の過去の証言に間違いが無ければ、二十四歳のはずよ」
「……だそうだ」
求めていた答えが出たぞとばかりに、ジルはビリーの顔を見た。
(なるほど、二十四か……)
ビリーは頭の中で復唱した。二十四……にじゅう、よん……?
「二十四!?」
その大声に、ジルの心臓がびくりと跳ねた。そして眉間にしわを寄せ、鋭くビリーを睨む。
「……っ、なんか文句あんのか?」
「い、いえ……ございません」
その剣幕に、つい敬語になってしまう。
彼の容姿だけ見れば、その年齢でも違和感はない。だが、これまでのジルの言動から、ビリーは彼の事をユアンと同じ歳――下手したら更に下かもしれないと思っていた。
その一方で「二十四歳」と聞かされたとき、ビリーは密かに安堵した。未成年かもしれない相手に、あんなことやこんなことを、したりされたり――正直、気が気ではなかったのだ。もちろん、それで今後どうするというわけでもないのだが……。――のちに、この「二十四歳」という年齢が、ジルの記憶違いによる誤りだったことが判明する。実際は二十三歳だった。
こうしてビリーの抱えていたひとつの疑問は解消された。だが、そんな年齢のジルが子供のように震えていたことを思い出して、ビリーの胸は締め付けられた。
踏み込むべきではない――そう思っても、彼の過去を知りたいと思う自分がいるのも事実だった。。
(俺は、どうしたらいいんだろう。……アイシャ)
葛藤する心の中でビリーは、今は亡き、愛する人の名を呟いていた。
