特務室の面々との顔合わせを終え、ユアンはリサと共にオフィスを後にした。歩きながら、個性豊かな二人のオペレーターの顔が脳裏に浮かび、その名を頭の中で復唱する。
ふと、まだ会うべき対象に会っていないことを思い出した。
「リサさん、マザーはどこに?」
「……その前に、ひとつ。ここでは“室長”と呼んでください。公私はわきまえるように」
「――っ、申し訳ありません。室長!」
その指摘にぴんと背筋が伸び、思わず声が大きくなる。
彼女は自分の所属する部署の長であり、上司なのだ。二年前と同じ意識ではいけないと、ユアンは気持ちを改めた。
「そこまでかしこまる必要はありませんが……。――さて、マザーですが」
一呼吸置いて、リサは言葉を続ける。
「マザーは現在、メンテナンスを受けています。通常は週に一度、定期的に行われるのですが、明日からは新任の監視人を伴うことになるので――。」
新たな監視人との共同行動を前に、メンテナンスのタイミングを調整したのだと彼女は補足した。
「先に、貴方の部屋を案内しましょう」
そう言うと、リサは長い廊下に唯一の扉の前に立ち止まった。
「この扉は、マザーと監視人の認証でのみ開きます」
言われるがまま、ユアンが手首をかざす。静かにスライド扉が開き、白を基調とした静謐な空間が姿を現した。
都市を見渡す大きな窓と空調に揺れるカーテン。
最新機能が完備されたキッチン。
人ひとり眠るには大きすぎるベッド。
その隣では、観葉植物が青々とした葉を静かに揺らしていた。
監視人は、セントラル・エリウズの中でも特殊な立場になる。常にマザーと共に行動し、その動作を監視しなければならない。つまり、個人としての自由を失うことになる。その代わりに、このような快適な生活空間が与えられるのだ。
人が暮らすことを前提に整えられた部屋。その中で、一つだけ、明らかに異質なものがあった。
無数の管に繋がれた椅子――ユアンは、それに見覚えがあった。
「あの椅子は……でも、前の部屋とは違いますよね?」
「ええ。エリウが使っていた部屋より、さらに設備を整えたのがこちらです。マザーの部屋ですが、貴方のものでもあります。自由に使ってください」
部屋の中を左手から順々に見て回る。ダウンタウンの生家の部屋とは比べ物にならない広さに、ユアンは感嘆を吐いた。
生まれ育った家に不満はなかった。むしろ、母と祖父に愛され、満ち足りた環境で育ったことに、ユアンは深く感謝していた。それでも、この環境とのあまりの落差に、思わず息が漏れた。
特にユアンの目を引いたのはキッチンの最新設備――そのシステムの中身が知りたい。機械バカな自覚はあったが、やはり最新という響きには抗えない。
ユアンが内装に気を取られていたその時、音もなく入り口の扉が開いた。純白の外套を翻して現れた人物の髪は、絹糸のような青灰色で、照明にきらきらと揺れている。
ゆっくりと、静かに近づいてくる――その姿に、ユアンは目を見開いた。
「誰……?ここで何してるの?」
問いかけてきたその顔は、かつての友エリウと瓜二つだった。だが、氷の様に冷たい表情は、人ではない無機質さを物語っている。
無機質な紫水晶の瞳が、ゆっくりとリサに向けられた。彼女はそれに応えるように口を開いた。
「先日話をしたでしょう?新しく着任した監視人です」
「は、初めまして。僕は――」
「いらないと、言ったはずだよ」
名乗る間もなく、冷気を含んだ声が遮った。
「どうせ彼も、今までの奴らと同じですぐに辞める」
冷たく突き放す視線に刺され、ユアンは言葉を失った。
記憶にあるよりも険しい表情、抑揚のない語気。
当然、覚悟はしていた。
それでも――改めて痛感する。
エリウは、もうこの世にいないのだと。
その後、リサとマザーはしばらく言葉を交わしていた。
「マザーといえど、制度には従うべきです」
「二十年前とは違う。技術はすでに人の手を超えている」
「それでも、万が一の際に必要なのは、その“人”の手です」
そんな応酬が繰り返されていたが――ユアンの思考は靄がかかったように曖昧で、言葉が頭の中を素通りしていった。
「では、明日から規則通り、監視人……ユアンを伴っての巡回をお願いします」
「……」
ユアンの思考が輪郭を取り戻すと、二人の問答には決着がついていた。
だが、マザーは未だ不服と言わんばかりの表情で黙り込んでいる。そんな彼に、リサは静かに圧をかける。
「マザー」
「……わかったよ。ついてくるなら勝手にすればいい」
根負けしたのか、マザーは不本意ながら彼女の言うことを受け入れた。けれど、彼はユアンのほうを見ようともしない。このままでは会話の機会を失ってしまうと、ユアンが意を決して言葉を発するが――。
「あの……マザー、僕は――」
「名乗る必要はない」
再び容赦なく遮られる。マザーは右手でホログラム・モニターを展開すると、品定めをするかのようにユアンとモニターを交互に眺めた。
「君のデータはここに入ってる。ユアン・ゴート――監視人適性が無いにもかかわらず特例での登用、ね。言っておくけど、僕は君を認めていない。認めてほしければ、せいぜい頑張りなよ」
手の平を横に滑らせると、モニターは光の粒子となり虚空へ散る。そして、無機質な椅子にマザーは深く腰を下ろした。
「先に眠らせてもらうよ。明日の予定はリサに聞いて」
言い終わるや否や、カラス玉のような瞳は静かに閉じられた。その姿は眠るように、かすかな駆動音を立てている。
「……眠った、の?」
ユアンがぽつりと漏らすと、リサがすぐに答えた。
「はい。あの椅子に座ることで、動力を補給します。スリープ状態に入ることで、効率的に――」
呆気にとられているユアンに、リサはマザーの行動について淡々と補足した。そして、小さくため息を吐いた。
「驚いたでしょう。人格が生成されてから2年間、マザーはあの調子で……」
「仰ってた“難”の意味が分かりました。確かに……エリウとは正反対だ」
明日から彼と、二十四時間を共にすると思うと先が思いやられた。けれど、彼の言うように“頑張る”しかない。ユアンはその覚悟に拳を強く握りしめた。
「明日の業務は午前八時からです。――ですが、マザーはおそらく、それより早く行動を始めるでしょう。その点も考慮してください」
「なるほど、時間通りでは置いて行かれることになるんですね」
「ええ。遅れないように、マザーに伴って現地へ直行してください。その日の巡回が終われば特務室へ戻り、報告書を作成、提出するように」
ユアンは業務の流れを忘れないように、端末にメモを取る。その動きが止まるのを確認すると、リサは言葉を続けた。
「明日の巡回ルートのデータを貴方のIDへ転送します。今後はルート作成を担当するビリーからデータが届くので、そちらを参照してください」
間もなく、彼女のIDからマップデータと巡回先を記したテキストが送られてきた。マップには数か所の施設にピンが立てられ、経路は青い線で結ばれている。テキストには施設の簡単な概要と不具合の内容が箇条書きされていた。
「荷物の整理もあるでしょうし、明日に備えてゆっくりと休んでください。それでは、私はこれで」
激励するようにユアンの背中を軽く叩き、リサは部屋の外へと姿を消した。
広大な部屋に静寂が訪れる。
ここに来てどっと疲れを感じたユアンは心地よさげなベッドに倒れこんだ。羽毛布団の柔らかな感触に包まれながら深く深呼吸すると、両手をついて体を持ち上げる。
「ここからだ……」
小さく呟くと、まだ確認していなかったバスルームへ向かう。
今夜は体を休めて、万全の状態で臨もう。
そう決めたユアンは、長い一日を静かに締めくくった。
