セントラル・ノーアの一室。
薄明りの中で、熱の交わる湿った音が、静かに室内を満たしていた。
「――アッ……は……っ」
節くれだった手が、若い躰を弄ぶように這いまわる。肌の感触を愉しみながらゆっくりと、特に敏感な部分に指が触れた瞬間――
「――ッ」
ジルの躰がびくりと跳ねる。声にならない悲鳴を漏らし、熱い吐息が漏れた。
夕暮れ色の瞳は潤み、土気色の肌に微かな紅が差している。
汗に湿ったシーツを握りしめ、悪夢のような夜を、今日もまた耐え忍んだ。
静寂に包まれた部屋の中、水音が響く。
正面に鏡を備えた洗面台。ジルはその白い陶器に手を突き項垂れていた。
体が重い。目の前がぐらぐらと揺らぐ。喉の奥から湧き上がる不快感が抑えきれずに吐き出された。
「――っ、くそ……」
吐き気が収まらない。喉がえずくたびに咳が込み上げる。
ひとしきりの嘔吐の後、焼けるような喉に手を添える。肩で呼吸をしながらジルは吐瀉物を洗い流した。
ディアは柱の陰から静かに様子を覗っていたが、やがて小さく声を掛けた。
「ジル、大丈夫?」
心配そうに覗き込む彼女を一瞥すると、ジルは何も言わずにベッドに向かい、そのまま倒れ込む。
先刻の情事に痛む体を休めるように、柔らかな寝具に身を委ねた。
ノーアの貧民街――スラムの片隅でジルは生まれ育った。上層街の貴族を相手に躰を売ったり、盗みを働いたり。そうして泥の中を生きてきた。
彼にスラムでの生き方を教えた人物はこう語った。
『俺たちがこんな生活を強いられるのは、全てマザーのせいだ』
ジルはその言葉を信じ、日々マザーへの恨みを募らせていた。
スラムでは時折、縄張り争いが起こる。ジルが自ら争いを仕掛けることはなかったが、売られた喧嘩は買い、近年では負け知らずだった。
そんなジルの姿が、たまたまスラムへ視察に来ていたレジスの目に留まった。
彼は貧民に対しては破格の報酬を餌に、ジルを監視人に勧誘したのだ。
レジスの邪な考えなど知る由もなく、ジルは絶好の好機だとこの誘いを受け入れた。
組織に入り込めれば、容易くマザーに近づける――近づきさえすれば、壊すことなど簡単だ。
だが、蓋を開ければ全ての元凶はマザーではなく、セントラル・ノーアという組織そのもの――人間の欲であることを、ジルは知った。
そして、ジルの憎悪はマザーからレジスへと対象を変えた。従順なふりをして、いつかその首を食い千切るために――。
白く細い指先が、ベッドに横になっていたジルの髪にそっと触れた。
露わになった左目の瞳孔は、光を捉えることなく開き切っていた。それは、彼が幼い頃に父親から受けた暴力の痕跡だった。
「――っ……やめろ」
眩しさに顔をシーツにうずめる。
ジルの左目は、わずかな光にも過敏に反応する。そのため、目を隠すように前髪の左側を長くのばしていた。
ディアはジルの髪から手を離し、彼の放り出された左手に指を絡める。
ジルは何も言わないが、彼女の人の体温とは違う冷たい手は、彼にとって心地よいものだった。
さっきまで躰にまとわりついていた熱が、感触が薄れていく。不快感が和らぐと、ジルはゆっくりと眠りの底に落ちていった。
ジルは度々悪夢にうなされた。この日のように、躰を暴かれた後は特に酷い。
額に大粒の汗を浮かせ、胸を掻きむしるように苦しみ藻掻く。乱れた呼吸の合間に、かすれるような声で懇願する。
――父さん
――やめて
――ごめんなさい
漏れ出す言葉の内容から、現在ではなく、過去の夢を見ていることが分かった。
冷たい手で汗の滲むジルの額をそっと撫でると、やがて乱れていた呼吸が整っていく。
自分の手が、彼を癒している――そう気づいてから、ジルがうなされるたびに、ディアはこうして彼の手を握るようになった。
けれど、悪夢から完全に守ることはできない。
……もどかしい。
ディアの冷たい手にできるのは、彼の苦しみを和らげることだけだった。
