#004: Handshake

Novel1

 ユアンが監視人に着任してから、まもなく一ヶ月が経つ。リサの指導もあり、初日のようにマザーに部屋から閉め出されることはなくなった。ビリーやヘレンの助力もあり、作業ペースは向上。マザーと過ごす時間も、少しずつ増えている。
――でも、まだ遅い。もっと、早く。
 寝る間も惜しみ、昼夜を問わず、ユアンは手を止めなかった。時間さえあれば、技術を磨いていた。

 ある日の巡回。メンテナンスを終えた二人は、施設の関係者用通路を歩いていた。ユアンはマザーの数歩前を歩いている。マザーが、そうするよう指示したのだ。
 マザーは、静かにその背を見つめながらついて行く。その目には、以前のような冷たさはもう感じられなかった。
――以前より、格段に早くなってる。
――当然、僕には遠く及ばない。けれど、人としては……?
 日ごとの変化はわずかでも、積もれば違いは明白だ。マザーは、初めて「驚き」に似た感情を覚えていた。
 
 そのとき、不意にユアンが立ち止まり、マザーが背中にぶつかった。
「――っ。なんで急に止まるんだ」 
「なんでって……エレベーター待ちなので」
 思考に意識を取られ、歩いている場所すら意識の外にあった。バツが悪そうに、マザーは視線を逸らし、ユアンからほんの少し距離を取る。
「大丈夫ですか? どこか調子でも――」
「そのしゃべり方、やめろ」
 視線を逸らしたままの声に、ユアンはぽかんとする。
「全部言わなきゃ分からないのかい? 敬語をやめろって言ってるんだ。それと――」
 マザーは一瞬、言葉を探すように間を置いた。その沈黙のあいだに、エレベーターが到着する。電子ベルが鳴り、扉が開いた。
 今度は、ユアンをまっすぐに見て告げる。
「明日から、君の車で現地に向かう」
 そして戸惑って動けないユアンを避けて、エレベーターに乗り込む。何も言えず残されたまま、ユアンの目の前で扉が閉じられた。
「えっ?……あっ!」
 ようやく思考が追いつき、慌てて呼び出しボタンを押す。だが、マザーを乗せたカゴは既に階層を移動し始めていた。
「明日、から……」
 ――君の車で現地に向かう
 確かに、そう言った。
 これは一歩前進と言えるのだろうか。ユアンは胸の奥に残る戸惑いと共に、何度も明日のスケジュールを見返した。

 その翌日から、宣言通り。二人はユアンの車で現地へ向かうようになった。移動中に言葉を交わすことはない。だが、バックミラーに映る彼の姿を確認するたび、ユアンの口元は自然と緩んだ。
 マザーの変化は、それだけではなかった。
 たとえば巡回先の施設でのメンテナンス。以前は、マザーが残した一部処理を回されるだけだった。それが今では、マザーと並行して作業を任されるようになっていた。
 もちろん、ユアンの処理速度はマザーには及ばない。同時に作業を始めれば、マザーが先に終えるのが常だ。けれど、その後も彼の作業が終わるのをマザーは待つようになった。――というより、ユアンの作業を観察しているようにも見えた。
 
 どれだけ冷たい言葉を投げかけようと、ユアンは決して離れなかった。夜遅く、マザーはスリープ状態を装いながら、彼の様子をそっと覗うこともあった。ユアンほど〈マザー〉に真摯に向き合った人間は、他にいなかった。
 ――こんな人間も、いるんだな。
 マザーはそう思うようになった。
 “人”が、“機械”に、どれほど近づけるか。その可能性を、見てみたいと願うようになっていた。

 数日後の夜。
 ユアンは巡回を終え、報告書を作成するため特務室のオフィスを訪れた。
「お疲れ様です、ヘレンさん。これ、巡回先でいただいた差し入れなんですが」
 両手には、袋が抱えられていた。
「おつかれ、ユアン君。それ、食べ物かな? そこのバスケットに入れといて」
 「それじゃ、お先に!」と、ヘレンは慌ただしくオフィスを後にした。
 袋を所定の場所に置くと、ユアンはデスクチェアに深く腰を沈め、疲れを追い出すように長く息を吐いた。いつものように報告書に取り掛かろうとした、そのとき――
「ユアン」
 呼びかけられて視線を向けると、マグカップを片手にマザーが立っていた。
「少し一服しなよ。今日は休む間もなかっただろう?……なんて顔してるんだい」
 ユアンは目を見開いた。あのマザーが、自分をねぎらっている――夢でも見ているのだろうかと、頬をつねりたい気分だったが、なんとか堪えた。
「コーヒーを淹れておいたよ。ブラックでよかったよね」
「あ…うん。ありがとう」
 ここでようやく、名前を呼ばれたことにユアンは気づく。データとして読み上げられたことはあっても、こうして呼びかけられたのは初めてだった。それに、ブラックが好みなことを、いつの間に覚えたのだろう。 
「君が優しいと、調子が狂うな」
「どういう意味だい、それ……」
 思わず本音がこぼれる。
 そして、少し間を置いてユアンは尋ねた。
「でも、本当に……どうして急に?」
 マザーは少し考えてから、穏やかな声で答えた。
「君は……よく頑張っていると思う。それに対して、適切に報いるべきだと判断した」
 ゆっくりと、噛みしめるように言葉を続ける。
「ユアン。君は、僕が思っていた“人間”とは違ったみたいだ。今までの非礼を、詫びさせてほしい」
 それとも、もう遅いだろうか――と、俯きながら小さく零した。ユアンは、ぽかんとしたまま彼を見つめた。
「わ、詫びだなんてそんな……!」
 思わず立ち上がり、謝罪を制するように手を伸ばす。
 マザーの変化に、まだ頭はついていかない。けれど、思い返せばその兆しはあった。冷ややかな視線はやわらぎ、突き放すような物言いも、徐々に減っていった。
 それでも、ユアンにはまだ自信がなかった。
「僕はちゃんと、役に立ってる……?」
 その瞬間、マザーが笑った気がした。
「君は、自分がどれだけすごいことをしているか、本当にわかっていないんだね」
 気のせいじゃない。彼はたしかに、涼やかな笑みを浮かべていた。そして、差し出された右手を見て、ユアンは確信する。それは自分に向けられたものだ。
「もちろん、これからも君のサポートがあると助かる。遅くなってしまったけど、改めて――よろしく頼むよ、相棒」
 相棒と呼んでくれた。その手を、ユアンはしっかりと握り返した。人のような体温は感じない。けれど――彼の心は、とてもあたたかい。ユアンは、そう思った。