#010: Corrupted Core

Novel1

 ユアンに父はいない。彼が生まれる前に、マザーのエラーによる大事故に巻き込まれて命を落としたのだ。
 幼い頃に親に捨てられた母は頼る親戚もなく、それでも気丈にふるまっていた。見かねた父方の祖父が腹の子共々面倒を見ることにした。
 やがて、生まれたユアンが5歳になるころ、母は自宅のガレージを利用して花屋を始めた。ユアンが働きに出るようになるまでは、よく母の手伝いをしていた。

 一行の先頭を歩いていたユアンが、明るい灰色の外壁に包まれた一軒家の前で立ち止まった。
 大きすぎない二階建ての家屋に屋根は無く、その屋上には緑の葉が見え隠れしている。
 入り口の脇には『CLOSED』の札を吊るしたウッドフェンス越しに、色とりどりの花があるのが見えた。

「ここが、僕の家です」
 ユアンがインターホンを押すと短い応答ののち、玄関の扉が開かれる。
 すると、ユアンと同じ胡桃色の髪の女性――彼の母親アニーが、一行を出迎えた。
「おかえりなさい、ユアン。皆さんも、遠いところまでようこそ」
 その口調はたおやかで、柔らかな笑みが添えられていた。
「ただいま母さん、ごめんね。昨日の今日で無理言って」
「ふふっ、気にしないで。ユアンがお友達を連れてくるって言うから、お母さん本当に楽しみで」
 ニコニコと目を細め、彼女は花のように笑った。
 幼い頃から今日まで、ユアンが友人と呼べる人を連れてきたことはなかった。そんな息子がどうしてもと、友の面倒を頼んできたのだ。
 喜びを露わにする母に嘘を吐いたことを、ユアンはほんの少し後ろめたく思った。
「えっと、それで……昨日話した二人、彼女がディアで、彼がジル」
「突然押しかけてごめんなさい。よろしくお願いするわ」
 紹介されたディアは口調こそいつもの調子だったが、隣で知らぬ顔をしているジルの分まで、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ。自分の家だと思って、寛いでね」
 彼女は優しく微笑んで応じると、一行を家の中へと促した。
「僕の部屋で話をするから――母さん、お茶を入れてもらっていい?あとで取りに来るよ」
 部屋まで持っていこうかと彼女が問うと、ユアンは「大丈夫」とだけ応え、ユアンは二階へとディアたちを先導して行った。
 ふと、最後尾のビリーがアニーの前で立ち止まる。
「ど、どうも……ユアンの同僚の、ビリーです」
「まあ。いつも、息子がお世話になってます」
 「とんでもないです」と、ビリーは慌てて首を振り、手に提げていた紙袋を彼女に手渡した
「あの……大したものでは、ないんですが……」
 紙袋についていたタグを見て、アニーは目を見開いた。
 そこにはダウンタウンでも名の知れた、高級洋菓子店の名前が金色に箔押しされていた。
 下町ではなかなか手に入らない手土産に恐縮したのか、少し困った表情を浮かべている。
「……し、失礼します……」
 ビリーはいたたまれなくなり、そそくさと二階へ逃げ込んだ。
 
 
 ユアンの部屋は、彼が監視人になった日から変わっていない。
 母のアニーが定期的に掃除に入ることはあっても、ユアンが使用していたデスクやベッド、書棚は当時のまま残されていた。
「この部屋にあるものなら、なんでも好きに使ってもらって構わないから」
 そう言って、ユアンは二人を部屋に招き入れる。遅れてきたビリーも入室すると、扉を静かに閉じた。
 来客用の椅子やソファなどはなく、「適当に座って」と促されたディアは、その場にゆっくりと腰を下ろした。
 それに続いて、ビリーもその場に膝を折り――不意に、ジルがベッドに音を立てて倒れ込んだ。
「ごめんなさいね。ジルは昨夜、あまり眠れていないみたいなの」
 ぎょっとする二人にディアが説明するが、その異様な様子にビリーは床についていた膝を持ち上げた。
 今朝から何か胸がざわついていた。今朝会ったときの、死人のように土気色を帯びた顔。時折ふらつく足取り、言葉こそしっかりしていたものの、彼の余裕のなさをビリーは感じとっていた。
「……し、失礼」
 うつ伏せになっていたジルの体を、恐る恐るひっくり返す。
 すると――外套に隠れていた腹部が赤黒く血に染まっていた。 
「――っ!」
 それを見たユアンは言葉にならない声を上げた。そして、ディアへと視線を向ける。
 だが、彼女は涼しい顔をして座ったままジルを見ている。その表情から感情は読み取れない。
 ビリーは更に血に塗れた布をめくりあげる。
「……こんな状態で、どうして放っておいたんだ」
 その声は低く、かすかに震えている。
「……? 心臓はちゃんと動いているわ」
 ディアの言葉にユアンは絶句した。あれほどジルに対し、母のような慈しみを向けていた彼女の反応とは思えなかった。
「今心臓が動いていても、こんな傷――放置していたら死んでしまう。分からないのか?」
「死……?」
 彼女の紫水晶の瞳がかすかに揺らぐ。ディアはジルを死なせないためにエリウズへ来た――はずだった。
 ディアの中で“ジルが死んでしまう”という言葉だけが巡り、思考が停止してしまう。
「すぐに医者に見せないと、だが……生体IDで、彼がエリウズの人間でないことがバレてしまう」
 ビリーの声の、焦りの色が次第に濃くなっていく。
 その生体IDという言葉に、硬直していたディアが反応する。
「そもそもIDはないわ。ジルには、生体IDがない……」
 ディアの言葉に新たな疑問が生まれるが、今それを問いただしている余裕などなかった。
 どちらにしても公的機関は使えない。張り詰めた静寂の中、ユアンが口を開いた。
「……僕に、心当たりがあります。医者を、呼べるかも……!」
 そう言うと、ユアンは部屋を飛び出し一階へと駆け下りていく。
「……俺も、使えそうな布と水をもらってくる。君は、彼を見てて。不用意に触るなよ」
 そう言うと、ビリーはユアンに続いて階段を駆け下りる。
 部屋に残されたディアは、ベッドに横たわるジルを茫然と眺めていた。