#003: Uplink

Novel1

  白んだ空に、ゆっくりと朝陽が昇っていく。――エリウズの投影技術が、都市に新たな一日の始まりを演出していた。街路には、人々が足早に行き交い始める。その喧騒の中へ、マザーの監視人としての初日を迎えたユアンもまた、足を踏み出す――はずだった。
 
「……嘘」
 視線の先。金属的な光沢を放つ椅子には、座っていたはずの存在がいない。部屋の隅々まで探してみても、どこにも姿は見当たらなかった。ベッド脇の時計は、六時一〇分を示している。
 業務開始予定時刻は、午前八時。いくら何でも早すぎる。
 ユアンは血の気が引く思いを押し殺しながら、マザーのIDへコールを送った。だが、応答はなく、呼び出し音だけが無情に鳴り続ける。
「――っ。最初の移動先は……」
 小さく思考を呟きつつ、昨日受け取ったマップデータを呼び出す。セントラル・エリウズから約二〇キロ離れた地点にピンが立っている。
「ここが一番近い……追いかけないと」
 ユアンはモニターを閉じ、ポータブル端末を詰めたバッグを肩に掛けて部屋を飛び出した。
 
 車を走らせて二〇分。対象施設の関係者通路を抜けた先に、彼はいた。
「……やあ。随分と遅かったね」
 パーキングから全速力で駆けつけ、肩で息をするユアンを一瞥しただけで、マザーはすぐに視線をシステムモニターへ戻した。
「来ないかと思ったよ」
「……遅れて、すみません」
「謝る必要はないさ」
 マザーは手を止め、ようやくユアンの方へ体を向けた。
「君は別に遅れてなんかいない。ただ――言ったはずだよ? 僕は君を認めていない。だから、待つ気もない」
 その目は真っ直ぐにユアンを射抜いていた。けれど、そこに感情らしきものは、見えない。
「君に何ができる?」
 ユアンは呼吸を整えると、膝をつき、バッグから端末を取り出した。
「マザーの補佐をします。未処理の更新データがあれば、僕に回してください」
 無謀な挑戦だと、ユアン自身もわかっていた。少なくともこの都市で、機械の頂点たる存在――マザーを補佐するということが、どれほど無茶なことか。
 それでも彼には、それしかなかった。
「……好きにすれば」
 短い沈黙の後、マザーは静かに答えた。
 
 モニターに流れる文字列を追い、ユアンは指先を走らせる。処理速度と制度の両立。それだけに意識を絞り、余計な思考を締め出した。
 ふと、視界の端で白い裾が翻り、ユアンの手が止まった。
「その調子だと日が暮れてしまう。僕は先に行くよ」
 応える声を待たず、マザーはその場を離れていく。
 マザーはすでに作業を終えていた。たった一群の更新データすら処理しきれない自分に、ユアンは唇を噛んだ。
「……まだ、始まったばかりだ」
 誰にも聞こえない小さなつぶやきで自分自身を鼓舞し、作業を続けた。

 こうしてこの日は、先を行くマザーを追いかけては、一部の作業をユアンが引き受けることを繰り返した。初日で見限られるかもしれない――そう怯えながらも、どれだけ置いて行かれても、それ以上に拒絶されることはなかった。

「僕は先に休ませてもらうよ」
 巡回を終え、セントラル・エリウズへ帰還すると、マザーは廊下の奥へと姿を消した。緊張が解けたユアンは深く息を吐き、報告書作成のため特務室へと向かう。オフィスの扉を開くと、奥で出迎える人がいた。
「おっ、ユアン君。おつかれ~」
「おつかれ様です。ヘレンさん」
 ユアンの顔を見ると、有無を言わさず彼の手を取り、その手のひらに赤い包みのキャンディを乗せた。
「これから報告書だよね。甘いものでも舐めて、いったん休憩しなよ」
「あ、ありがとうございます」
 小柄な体を伸ばし、ユアンの頭をぐしゃぐしゃと撫でまわす。「じゃあね」と笑顔を送ると、ヘレンはひらりとその場を去った。 
 デスクに座り、手に残されたキャンディを口に放る。果実の優しい甘みが口いっぱいに広がり、一日の疲れが和らぐのを感じた。
 報告書のデータを提出し終えると、ユアンは部屋の前に戻ってきた。扉を開こうと手首をかざす。すると聞きなれないエラー音が鳴り響いた。
 ――認証コードエラー
 ――アクセスキーが無効化されています
 ――解除パスコードを入力してください

「は?」
 思わず声が出た。
 生体認証が通らない。アクセスキーが書き換えられている――マザー以外に、こんな芸当ができる者はいない。これには温和なユアンも、怒りが沸々と湧き上がるのを感じた。だが、こぶしを握り締め、ぐっと堪える。
 大きく息を吐くと、再び特務室のオフィスへと向かった。

 「どう考えても、嫌がらせ……」
 デスクに腕を組み、ユアンは深く項垂れた。今朝からのマザーの言動を思い返すたびに、頭が重くなる。
 置いて行かれるのは構わない、追いつけば済む話だ。作業だって、これから死ぬ気で食らいついていけばいい。――でも、最後のあれはなんだ?悪意以外の何物でもない。
 エリウとは正反対――けれど、それとは別種の奔放さが、今のマザーにはあるように思えた。
 「ユアン?」
 思案を巡らせていると、いつの間にか背後にリサの姿があった。
「明かりがついていると思ったら、貴方でしたか。部屋で休まないのですか?」
「それが……マザーに閉め出されてしまいまして」
 自分でも情けないと思いつつも、正直に現状を伝える。するとリサは慣れた様子で気を配った。
「後日、私の方から注意しておきましょう。ところで――」
 ユアンのデスクの隣に座ると、リサは言葉を続けた。
「マザーはなかなか手強いでしょう。上手くやっていけそうですか?」
「戸惑いが強くてなんとも……人格の再生成って、こんなにも変わるものなんですね」
 彼女の問いにどう答えるべきかユアンは悩んだ。
 慣れ親しんだ顔に見たことのない表情で突き放される。その現実をすぐに受け入れるのは難しい。
 うまくやって行けるかどうかもわからない。マザーには、もう嫌われているのかもしれない。けれど――それだけで、引き下がるつもりはない。
 考え込むユアンに、リサは静かに言葉を紡いだ。
「マザーの人格生成に法則はありませんが、今回のケースは特に極端に思います。ですが、どのような人格に変わろうともプログラムされた責務の通り、彼は行動するでしょう」
 彼はエリウではないが、エリウと同じくこの都市のために力を尽くすマザーだと、彼女は諭した。
「わかっています」
 その言葉に拳を握る。そんなエリウを、マザーを理解するために、ここへ来たのだと。
「マザーに変化を求めるんじゃない。僕がマザーに合わせないと」
 ユアンが改めて決意を口にすると、スピーカーからジジ……とノイズが響く。やがてマイク越しのビリーの声が控えめに響いた。
「……話は聞かせてもらった。俺にできることがあれば、力になるよ」
 とっさにどこに視線を向ければいいかわからず、ユアンは虚空を見上げた。そんなユアンの様子を知ってか知らずか、ビリーは言葉を続ける。
「やる気ある後輩に協力は惜しまない。君がマザーについて行けるよう、全力でサポートしよう」
「あ、ありがとうございます!」
 ユアンの弾むような声を確認すると、薄暗い部屋の中、ビリーはわずかに目を細めた。
今でこそ対面に踏み込むのは避けているが、彼には昔から、気にかけた相手に手を差し伸べずにいられない性分がある。
「協力は助かりますが、私はまず、貴方にそこから出てきてほしいですね」
 ビリーが慌ててマイクを切ると、リサは小さくため息を吐いた。だが、その口元は緩やかに弧を描いているように見えた。
「ユアン。ビリーは元々、監視人を志望していたのですよ」
「えっ。そうなんですか?」
 当時、適正試験で見かけたのをよく覚えている。リサはそう話を続けた。
 これまで初日で音を上げていた新人たちとは違う。ユアンのことを、見込みのある後輩として見て快く思っているのだろう――彼女はそう言った。
「あのとおり、少々癖は有りますが、信頼に足る人物であることは私が保証します。頼ってあげてください」
 かつて同じ道を目指していた、先輩と呼べる存在。そんな人たちに支えられていると思うと、ユアンはどこか照れくさくなった。けれど同時に――前途多難な道のりに、わずかな光が差し始めた気がしていた。