ユアンが監視人に着任してから、まもなく一ヶ月が経つ。リサの指導もあり、初日のようにマザーに部屋から閉め出されることはなくなった。ビリーやヘレンの助力もあり、作業ペースは向上。マザーと過ごす時間も、少しずつ増えている。
――でも、まだ遅い。もっと、早く。
寝る間も惜しみ、昼夜を問わず、ユアンは手を止めなかった。時間さえあれば、技術を磨いていた。
ある日の巡回。メンテナンスを終えた二人は、施設の関係者用通路を歩いていた。ユアンはマザーの数歩前を歩いている。マザーが、そうするよう指示したのだ。
マザーは、静かにその背を見つめながらついて行く。その目には、以前のような冷たさはもう感じられなかった。
――以前より、格段に早くなってる。
――当然、僕には遠く及ばない。けれど、人としては……?
日ごとの変化はわずかでも、積もれば違いは明白だ。マザーは、初めて「驚き」に似た感情を覚えていた。
そのとき、不意にユアンが立ち止まり、マザーが背中にぶつかった。
「――っ。なんで急に止まるんだ」
「なんでって……エレベーター待ちなので」
思考に意識を取られ、歩いている場所すら意識の外にあった。バツが悪そうに、マザーは視線を逸らし、ユアンからほんの少し距離を取る。
「大丈夫ですか? どこか調子でも――」
「そのしゃべり方、やめろ」
視線を逸らしたままの声に、ユアンはぽかんとする。
「全部言わなきゃ分からないのかい? 敬語をやめろって言ってるんだ。それと――」
マザーは一瞬、言葉を探すように間を置いた。その沈黙のあいだに、エレベーターが到着する。電子ベルが鳴り、扉が開いた。
今度は、ユアンをまっすぐに見て告げる。
「明日から、君の車で現地に向かう」
そして戸惑って動けないユアンを避けて、エレベーターに乗り込む。何も言えず残されたまま、ユアンの目の前で扉が閉じられた。
「えっ?……あっ!」
ようやく思考が追いつき、慌てて呼び出しボタンを押す。だが、マザーを乗せたカゴは既に階層を移動し始めていた。
「明日、から……」
――君の車で現地に向かう
確かに、そう言った。
これは一歩前進と言えるのだろうか。ユアンは胸の奥に残る戸惑いと共に、何度も明日のスケジュールを見返した。
その翌日から、宣言通り。二人はユアンの車で現地へ向かうようになった。移動中に言葉を交わすことはない。だが、バックミラーに映る彼の姿を確認するたび、ユアンの口元は自然と緩んだ。
マザーの変化は、それだけではなかった。
たとえば巡回先の施設でのメンテナンス。以前は、マザーが残した一部処理を回されるだけだった。それが今では、マザーと並行して作業を任されるようになっていた。
もちろん、ユアンの処理速度はマザーには及ばない。同時に作業を始めれば、マザーが先に終えるのが常だ。けれど、その後も彼の作業が終わるのをマザーは待つようになった。――というより、ユアンの作業を観察しているようにも見えた。
どれだけ冷たい言葉を投げかけようと、ユアンは決して離れなかった。夜遅く、マザーはスリープ状態を装いながら、彼の様子をそっと覗うこともあった。ユアンほど〈マザー〉に真摯に向き合った人間は、他にいなかった。
――こんな人間も、いるんだな。
マザーはそう思うようになった。
“人”が、“機械”に、どれほど近づけるか。その可能性を、見てみたいと願うようになっていた。
数日後の夜。
ユアンは巡回を終え、報告書を作成するため特務室のオフィスを訪れた。
「お疲れ様です、ヘレンさん。これ、巡回先でいただいた差し入れなんですが」
両手には、袋が抱えられていた。
「おつかれ、ユアン君。それ、食べ物かな? そこのバスケットに入れといて」
「それじゃ、お先に!」と、ヘレンは慌ただしくオフィスを後にした。
袋を所定の場所に置くと、ユアンはデスクチェアに深く腰を沈め、疲れを追い出すように長く息を吐いた。いつものように報告書に取り掛かろうとした、そのとき――
「ユアン」
呼びかけられて視線を向けると、マグカップを片手にマザーが立っていた。
「少し一服しなよ。今日は休む間もなかっただろう?……なんて顔してるんだい」
ユアンは目を見開いた。あのマザーが、自分をねぎらっている――夢でも見ているのだろうかと、頬をつねりたい気分だったが、なんとか堪えた。
「コーヒーを淹れておいたよ。ブラックでよかったよね」
「あ…うん。ありがとう」
ここでようやく、名前を呼ばれたことにユアンは気づく。データとして読み上げられたことはあっても、こうして呼びかけられたのは初めてだった。それに、ブラックが好みなことを、いつの間に覚えたのだろう。
「君が優しいと、調子が狂うな」
「どういう意味だい、それ……」
思わず本音がこぼれる。
そして、少し間を置いてユアンは尋ねた。
「でも、本当に……どうして急に?」
マザーは少し考えてから、穏やかな声で答えた。
「君は……よく頑張っていると思う。それに対して、適切に報いるべきだと判断した」
ゆっくりと、噛みしめるように言葉を続ける。
「ユアン。君は、僕が思っていた“人間”とは違ったみたいだ。今までの非礼を、詫びさせてほしい」
それとも、もう遅いだろうか――と、俯きながら小さく零した。ユアンは、ぽかんとしたまま彼を見つめた。
「わ、詫びだなんてそんな……!」
思わず立ち上がり、謝罪を制するように手を伸ばす。
マザーの変化に、まだ頭はついていかない。けれど、思い返せばその兆しはあった。冷ややかな視線はやわらぎ、突き放すような物言いも、徐々に減っていった。
それでも、ユアンにはまだ自信がなかった。
「僕はちゃんと、役に立ってる……?」
その瞬間、マザーが笑った気がした。
「君は、自分がどれだけすごいことをしているか、本当にわかっていないんだね」
気のせいじゃない。彼はたしかに、涼やかな笑みを浮かべていた。そして、差し出された右手を見て、ユアンは確信する。それは自分に向けられたものだ。
「もちろん、これからも君のサポートがあると助かる。遅くなってしまったけど、改めて――よろしく頼むよ、相棒」
相棒と呼んでくれた。その手を、ユアンはしっかりと握り返した。人のような体温は感じない。けれど――彼の心は、とてもあたたかい。ユアンは、そう思った。
PHASE01-RECONSTRUCT // END.
