#005: Harbinger

Novel1

 鉄のひしめく音が、重く響いた。
 低い天井では、古びたランプが時折火花を散らしながら明滅している。
 先の見えない闇の中、錆びついた二本のレールが朽ちた床に沿ってまっすぐ伸びていた。
 その横を、二つの人影が静かに歩いていく。
 
「もう少しよ」
 熱のない少女の声が、かすかに反響した。
 その細くしなやかな指先が、漆黒の外套をまとう青年の背へ、そっと添えられている。
 青年は浅く、短く呼吸をし、瞳は鮮烈な夕焼けのように赤く――虚ろに揺れていた。

 ***

 時は、数時間前に遡る。
 この日、マザーは微かな違和感を覚えていた。
 通信帯の波が、時折歪んで揺れる――だが、ウイルスの反応は検知されない。
 ただの杞憂か。そう思いながらも、耳の後ろを軽く叩くような動作で無線を呼び出す。
「ビリー。今日の巡回ルート、セントラルからの距離じゃなくて、優先度の高い依頼順に組みなおして」
 ビリーは少しの間を置いたのち、短く了承する。すぐに新しいルートが組まれた。
「組みなおせたら、過去のメンテに掛かった所要時間を参照して。十四時までに終わらない分は、明日以降に回してほしい」
「了解」
 応答を聞きながら、マザーは腕を組み、人差し指で反対の腕をとんとんと叩く。その落ち着かない様子を見ていたユアンは、堪らず声を掛けた。
「……何かあった?」
「いや。けど何か――」
 嫌な予感がする。そう続けかけた言葉を、彼は呑み込んだ。
 予感などという非科学的な表現は、口にすべきではない気がしたのだ。
 まもなく、ビリーから変更された巡回データが届く。
 合理的に結ばれていたはずのルートとは異なり、青いラインは点在する四つのピンを、無理やりつなげるように走っていた。
「移動に時間はかかるけど、しかたないか。行こう、ユアン」
 マザーはそのままユアンのIDへデータを転送し、車に乗り込んだ。
 彼の曖昧な態度に違和感を覚えながらも、ユアンは黙って運転席に腰を下ろし、エンジンをかける。そして、最初の巡回先へと車を走らせた。

 巡回は滞りなく進んだ。通信もデータの応答も、すべて平常通りだ。
 「十三時五十三分……さすがビリー先輩。ほぼ予定の時間通りだ」
 ビリーの職人めいた仕事ぶりに、ユアンは感嘆した。その様子を横目に、やはり杞憂だったかと、マザーは胸をなでおろす。
 その刹那――
「――っ!?」
 内部通信帯が大きく揺らぎ、ノイズが散った。
「マザー?」
 異変に気づいたユアンが、すぐに駆け寄り、彼の肩に手を添える。
「通信帯に障害が起きてる」
 その言葉に、ユアンは即座にホログラムモニターを展開した。――だが、《LINK DISRUPTED》の文字が表示された直後、モニターは光の粒子となって霧散した。
 「これ、まずいんじゃ」
 「大丈夫」
 隣で顔を青くし始めたユアンの不安を、マザーは静かに一言で断ち切る。
 「障害時は自動的にバックラインに切り替わる。都市機能に問題はないよ」
 その声音は、ユアンを安心させるためのものだった。
 ――ただ、こんな大規模な障害は、マザーのエラー、あるいは明確な意図がなければ起こり得ない。
 今朝感じた違和感が、マザーの脳裏によぎる。何かが起きている――それだけは、確かだった。
 ほどなくして障害は治まり、ユアンが再びモニターを展開すると、≪LINK RESTORED≫の文字が浮かび上がる。
「一度、上層部に確認を取ったほうがよさそうだね。セントラルに戻ろう」
 そう言って車へ向かおうとしたマザーを、ユアンが呼び止めた。
「――まって」
「なに? どうかした?」
「変なメッセージが来てる。発信元は『Unknown』」 
 ユアンのもとへ戻ったマザーは、彼の指先に浮かぶメッセージへと目を向けた。

  挨拶は受け取ってもらえたかしら?
  エリウズの地下、連絡通路の最北で待っているわ。
  誰にも言わず〈15:00〉までに、二人で来てちょうだい。
  もし時間に遅れれば、貴方の大切な都市の安全は保障できない。
  私の期待を裏切らないで、ELYSIUM
  ――隣人より

「いたずら……じゃ、ないよね」
 ユアンは戸惑いながら、マザーを見つめる。
 しばし思案の沈黙ののち、マザーは現在時刻を確認した。そして、言葉もなく車へ向かって歩き出した。
「すぐに移動しよう、ユアン。場所はここだ」
 振り返らずに、彼へマップデータを転送する。そこには一か所だけ赤いマークが記されていた。
 ユアンもすぐにその後を追い、車に乗り込む
 受け取ったデータをもとに目的地へと車を走らせながら、ユアンは問いかけた。
「あのメッセージ、マザーは心当たりがあるの? なんで、僕のIDに……」
「君のIDを利用したのは――マザーへの通信は記録が残るからだ」
 おそらく、何らかの方法で監視人であるユアンのIDを特定したのだろう。マザーは更に続けた。
「『ELYSIUM』――この名前を知っている者は限られる。その文面にあった地下通路の『最北』、『隣人』。そして、さっきの障害……つなぎ合わせれば、犯人の見当はつく」
 ハンドルを捌きながら、ユアンはその答えを待った。
「この発信元は――ノーアの〈マザー〉だ」