#011: Scars

Novel1

 夢を見ていた。
 小さな食卓を、父と母と、三人で囲んでいる。
「おめでとう、ジル」
 母が目を細めて言った。
 食卓には塩と胡椒で焼いただけの硬い肉と、素朴なケーキ。
 白いクリームの上には、色とりどりのろうそくが数本立っている。
 “ぼく”が、その炎を吹き消した瞬間、周囲は闇に包まれた。
 そして、彼方から声が聞こえてくる。
「気持ち悪い」
「こんなことなら産まなきゃよかった」
 母の声と。
「愛しているよ、――――」
「お前も、俺を裏切るのか……!」
 父の声が、耳鳴りと共に通り過ぎた。
 暗闇の先では、真っ赤な“何か”がこちらを見つめている。
 それと目が合うと、背中を炎で焼かれる感覚が襲い、左目が鈍く痛んだ。
「たす……けて……っ」
 もがき苦しむ“ぼく”は、弱々しく震える手を虚空に伸ばす。
 その手を――温かく大きな手が包み込んだ。
 ……これは夢だ。この世に救いも、赦しも、あるはずがない。
 都合のいい夢だ――。

 ***

 心当たりがある。そう言って一階へと駆け下りたユアンは、キッチンで人数分のコーヒーを用意していた母、アニーに声を掛けた。
「母さん!父さんの友達に医者の先生がいるって昔話してたよね?」
「え、ええ。すぐ近くに診療所を構えていらっしゃるけど」
 その唐突な問いかけに、アニーは眉をひそめて答えた。
 ユアンの亡くなった父は医者をしていた。
 当時、同じく医者である友人がいたと、幼いユアンに父のことを語った際、教えてくれたのだ。
「今すぐうちに来てもらえるよう連絡してほしい。怪我人がいるんだ。お腹に酷い出血がある」
 ユアンの深刻な表情を見て、理由を聞くのを後回しにアニーはすぐさま、診療所へ連絡を入れた。
 その間に、ビリーはお応急処置のために必要なものを求めて階段を下りてきた。
 ユアンはその要求に従い、ありったけのガーゼと布、そして水をビリーに渡した。
「いま母さんに、知り合いの医者の方に連絡してもらってます」
「わかった。医者が来たら、すぐに上に案内してくれ」
 必要な用件だけを交わす。
 そしてユアンは、電話を終えて心配した面持ちのアニーに付き添い、ビリーは再び階段を駆け上がった。

「様子はどうだ?」
 部屋に戻ったビリーは、ベッドの上のジルに寄り添うディアに呼びかけた。
「さっきより、呼吸が浅くなってるわ」
 振り向かず応えた彼女に「そうか……」と短く返した。
 医者が来るまでは、まだ時間がある。今自分にできることをしなければ――。
 ビリーはかつて学んだ知識を頼りに、ジルに応急処置を施す。
 傷口をガーゼで覆い、湿った衣類を脱がせて汗を拭き取ったあと、布で体を包んだ。意識は混濁していて、水を飲ませるのは難しそうだ。
 冷静を装っていたが、ジルの体に触れる手はかすかに震えていた。ビリーの背後でディアがぽつりと呟く。
「ジルは、死ぬの……?」
 その言葉に心臓が大きく脈を打った。彼にとってもこんな状況は初めてで、医者が来るのを待つしかない。ビリーが言葉に詰まっていると、不意に目の前のジルの手がゆっくりと動いた。
「たす……けて……あつ、い……い……やだ……」
 かすれる声で、うわごとのように繰り返し、震える手が縋るように虚空へ伸びる。
 ビリーはその手を、自らの手で優しく包んだ。
「……死なせない。絶対」
 
 程なくして、アニーの連絡に応じて、診療所から医者が到着した。
 走ってきたのか、額には大粒の汗が浮かび、白衣は肩からずり落ちるように乱れている。
「ハロルド先生、急にお呼び立てしてすみません」
「お久しぶりです、アニーさん。緊急と伺いましたが、患者はどこですか?」
 ハロルド医師が呼吸を整えると、ユアンが二階にいる患者――ジルの元へと案内した。
 部屋に入ると、ベッドに横たわったジルの姿がハロルドの目に飛び込んだ。彼はすぐさま、ベッドの横に跪き、抱えていた医療バッグを床に置く。そして、ジルに声を掛けながら、意識の有無、怪我の状態を念入りに確認した。
「彼に応急処置を施したのは?」
 不意に投げかけられたハロルドの問いに、「俺が……」とビリーがおずおずと手を上げた。
 それを見たハロルドは、なるほどと頷く。
「良い処置です。君には助手をお願いしたい」
 そう言うと、ビリーを横に立たせ、ユアンとディアには下で待つよう促した。
 ここで自分にできることはない。ユアンはそう悟ると、ジルを気にするディアの手を引いて一階へと下りていった。治療が無事終わることを祈って――。

 
 一方その頃――。
 セントラル・エリウズの技術センターでは、シオンが定期メンテナンスを受けていた。
 その様子をラボの片隅で見守るリサは、ヘレンとコールを繋いでいた。
「それにしても、よくあの先輩が付き添いをOKしましたね」
「彼も、ここ数ヶ月で多少変化したようです」
 その内容は、ビリーに関するものだった。
「というか、先輩ってなんで“ああ”なっちゃったんです? 以前は監視人の適性試験に顔を出してたんですよね?」
「さて、私も詳細は伺ってないので」
 ビリーがヴァリオン重工業当主の跡継ぎであることは、セントラルの中でも広く知れ渡っていた。監視人を志望したのちに転属を繰り返した彼を、金持ちの道楽と見る人間も多かった。
 そんな中、一部で“ある噂”が立っていた。
 
『ビリー・ハーヴェイは婚約者に心中を強要されたらしい』
『その婚約者は保安局に拘束されて、収容所で命を落としたそうだ』

  ちょうど、そんな噂が立ち始めた時期と、ビリーが転属を繰り返すようになった時期が一致していた。それまで顔を出していた人間が、ある日を境に様子が一変したのを見るに、家のことだけがきっかけとは考えにくい。
「あの噂、やっぱり本当なのかなあ……」
「ヘレン。人のプライベートに、無遠慮に踏み込まないように。そういう内容には特に……」
「わかってますよお」
 さすがのヘレンも、重い話だっただけに本人に聞くことは憚られた。
 ただ、いつまでもうじうじとした態度が気に入らなかった。
「このまま、変わるといいんですけどねえ」
「そうですね」
 それがヘレンなりの優しさであることを、リサはよく理解していた。
 そして今――ビリーにその転機が訪れていた。