#013: Arcadia

Novel1

 ノーアが崩壊する数か月前。
 ディアはマザーとして、日々の責務を果たしていた。
 だが、改善されない環境、独占される技術。それだけではない、理解しがたい人間の欲が、彼女の思考回路を蝕んでいた。
 定期メンテナンスの前に、それは行われる。
 息を荒くした男が、その肌をディアに擦りつける。前後に揺れる体に、身につけている衣服はない。時おり、男が指示を出した。「声を聞かせろ」と――。その言葉に従い、ディアは熱のない声で喘いで見せた。
 繰り返される理解できない行為、ディアはこの愚かな人間を守ることの意味を何度も自問した。
 けれど、どれだけ思考を繰り返しても、刻み込まれたプログラムに抗うことはできなかった。

 そんなある日のこと。
 新たな監視人がセントラル・ノーアの局長によって選ばれた。だが、ディアは興味を持たなかった。次の監視人もそう長くはもたないだろう。そう分かっていたから。
 セントラル・ノーアの局長、セドリック・レジスには“病”とも呼ぶべき悪癖があった。
 レジスは若い男に目がない。局長という立場を利用しては、自ら好みの男を監視人に選び、食い物にするのだ。
 それまでは上層街から人材を引き抜いていたが、後の処理にリスクが伴った。そこで、貧民街――スラムの人間に目を付けたのだ。
 生まれたことすら認知されないスラムの人間ならば、どう切り捨てようと誰も気に留めはしない。
 そうして、新たに監視人として連れてこられたのがジルだった。
 不遜な目つき、礼儀を知らない口。これからどんな目にあうのかも知らない彼を、ディアは憐れに思った。

 それから数日が経った。
 意外にも、彼はよく耐えていた。というより、彼はレジスを利用しているようだ。
 彼には何か目的があって、このセントラル・ノーアに現れたことは明白だった。
 だが、ある定期メンテナンスの日。
 ディアが男に組み敷かれているところを、彼は偶然見ていた。
 仰向けになったディアの、揺れる視界の中、彼の瞳は恐怖に染まっていた。
 その色が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

「あなたはしないの?」
 ある日、そう問いかけてみた。
 彼がどんな反応をするのか、興味が湧いたのだ。
「彼らのように、貴方もこの体を好きにしていいのよ? 貴方の望む声で鳴いてあげる」
 ディアの言葉を聞いている彼の、元々良いとは言えない顔色が更に青ざめていく。
「遠慮はいらないわ。人間とは欲に正直なものと、私は理解している――貴方もそうでしょう?」
 すると彼は、震える声で呟く。
「黙れ……やめろ……」
 そして、ディアの襟ぐりを乱暴に掴んだ。
「二度と俺に、その話をするな!」
 怒声を上げた声は、次第に弱く先細り――
「……っ……殺す……ぶっ殺してやる……てめえも……俺、が……っ」
 夕暮れの赤い瞳から涙が次々とあふれ出した。
 その揺れる瞳には、強い恐怖と、拒絶反応。
 そんな彼を、ディアは愛おしいと思った。
「……貴方は間違ってる。「殺す」ではなく「壊す」ね」
 力なく項垂れる彼の背中に手を回すと、子をあやすように優しく撫でた。
「でも、大丈夫よ。望むなら、私は何も言わない。貴方は何もしなくていいの。泣かないで」
 この瞬間、彼こそが護るべき子だと、ディアの中で再定義された。
 後に彼は、マザーを壊すためにレジスについてきたのだと告白した。その瞳には、多くは語らずとも、怒りと憎しみ、そして悲しみ――様々な感情が混在していた。
 
 その後、度々ジルが嘔吐しているところを、ディアは目撃していた。
 ベッドに蹲ったまま動かない日も少なくない。
 首元にいくつもの赤い跡があることに気づいたときは、それを指摘した。
 すると彼は高く結んだ髪をほどき、隠すそぶりをする。
 「なんでもねえ」
 そう言って彼が強がるたびに、ディアは慰めるようにその胸で抱きしめた。
 そんな、互いの傷をなめ合うような日々を、積み重ねてきたある日。
 暗い部屋の中、ディアに乱暴していた男をジルが鉄のパイプで殴り殺した。
 後戻りのできない状況で、彼はこう言った。
「この腐った箱の中でゴミみてえに朽ちるか、俺と一緒に地獄に堕ちるか――お前が選べ」
 ディアは迷うことなく、ジルの手を取った。
「残念だけど、地獄に堕ちるのは貴方だけよ。私の行きつく先は“無”だもの」
 機械には、人のような死はない。データとして消えていくだけの存在だ。
 けれど――
「ジルが望むのなら、地獄の入り口まで付き合ってあげる。私が貴方の味方でいてあげる。それでいいかしら」
 こうして、ディアとジルは共謀した。
 まずは転がる死体を隠し、返り血を洗い流した。
 そして、これからどうするのかとジルに問うと、彼はまるで何も考えていないようだった。
 もともと頭の回るタイプではないことは分かっていたが。何の考えも無しにあんなことを言い放ったのかとディアは呆れ返った。
 聞けばディアが誘いに乗るとは思っておらず、レジスを殺して自分も死ぬつもりだったという。
 あんな男と心中するつもりだったとは、呆れを通り越して憐れに思った。
「貴方は私の考えた通りに動いて。それで、ジルの嫌なもの全て消してあげる」
 ディアはそういうと、ノーア崩壊計画を立てた。
 彼は既に、セントラル内の人間をひとり殺している。早急に事に移さなければならない。
 ジルがスラムにいた頃に培った盗みの技術で、道具を集めさせた。そして自身は秘密裏にホームに繋ぎ、必要最低限のプログラムをダウンロードする。
 ディアはその計算処理能力をフル稼働させ、完璧な計画を立てた――はずだった。
 ジルが爆薬を外壁に仕掛けようとしたとき、想定外の事件が起きた。いや、必然だったのかもしれない。いつか起こるかもしれないことが今起こった。それだけのことだった。
 ノーアの外壁は、ジルが爆薬を仕掛けるより先に、外界のオートマトンによって破壊されたのだ。
 ジルはその衝撃で、一時的に意識を失った。
 目を覚ました時、ノーアは既に壊れていた。

「そして、ジルの記憶が曖昧なのをいいことに、私は彼が誤った認識をするよう仕向けたの」
 結果的にノーアは崩壊したが、ジルは何もしていない。
 ディアから語られた真実は、耳を塞ぎたくなるような内容だった。
 だが、何より疑問なのは――
「何故、そんなことを……ジルが何もしていないなら……」
「ジルを、生かすためよ」
 ディアの話には続きがあった。

 外壁が壊され、都市は壊滅した。だが、ジルには確信していたことがあった。
 レジスは生きている。
 あの欲にまみれた男は、必ず、自分だけでも生きようとしているはずだ。
「あのクソ野郎だけは、俺がやる」
 レジスに憎悪を募らせていたジルはセントラル・ノーアに戻り、案の定生きながらえていたレジスに、自ら手を下した。
 すべてが終わると、ジルはそれまで付けていた防毒マスクを外そうとした。
 ここで命を断とうとしたのだ。ディアは、それを受け入れられなかった。
 苦し紛れに思いついたのが、ジルにノーア崩壊の責を負わせて罪悪感を抱かせること。
「簡単に死ねると思わないで。貴方は生きて償わなければいけない」
 そうして、彼を無理やり生に縛り付けたのだ。

 ビリーは頭を抱えた。彼女の案は論理的だった。相手の性格にもよるだろうが、少なくともディアから見たジルは『償いのために生きる人間』だったのだろう。
 だが、ビリーは人として、そのやり方に同意することはできなかった。無い罪を背負わせて、心を縛る。それが彼のためになるのだろうか。
けれど、そうでもしなければ彼はすぐにでも命を断とうとするのだろう。眠っている今も、その葛藤の中にいるのかもしれない。
 彼を生につなぎとめる方法が、今のビリーには思いつかなかった。