ディアとジルが、ユアンの家に匿われた日。
ジルはノーアで負った腹部の怪我により意識を失い、医師の治療を受けていた。
その後の経過観察のため、彼の傍に残ったビリーとディアは、ジルの眠る部屋で顔を突き合わせていた。
ビリーはディアから、彼女とジルの出会い、そして現在に至るまでの真実を打ち明けられる。
その重く、人としては受け入れがたい内容に、頭を抱えていた時だった。
不意に、ベッドで眠っていたジルが、かすかに声を漏らした。
ハッとして、ビリーは思案に俯いていた顔を持ち上げる。
気づいたディアも、彼に呼びかけた。
「ジル!」
土気色をした顔、その瞼がゆっくりと開かれる。何度か瞬きを繰り返したその目が、ディアを捉えた。
「……ディ、ア……?」
弱く、掠れた声が、その目に映した彼女の名を呼ぶ。ディアはジルの手を取り、頬を摺り寄せた。
ジルはそのまま体を起こそうとするが、その瞬間腹部に激痛が走る。
「――っあ!」
「縫合したばかりだ、まだ動かない方がいい」
痛みに顔を歪め、息も絶え絶えになるジルの肩を押さえ、ビリーが制した。
ふと、医師の言葉を思い返した。
『目を覚ましたら、水分を飲ませてあげてください』
ジルの意識がはっきりしているのを確認したビリーは、あらかじめ用意していた飲料水を器に注いだ。
「ジル。少し苦しいとは思うが、水を飲むんだ」
そう言って、ビリーはジルの頭に手を添え介助しようとする――が、それをジルは拒絶した。
「や……めろ――っ」
痛みに悶えながらも、水を持つビリーの手を振り払う。一人じゃ手に負えないと、ビリーは怪我のことなどお構いなしに暴れるジルを、押さえつけるようにディアに頼んだ。
まるで警戒した猫のように威嚇するジルに、ビリーはしばし考え込んだ。
そして、手に持った水を自らの口に含むと――
「ん――っ!」
彼の口にそっと押し当て、舌先で唇の隙間を探るように開かせる。
ジルは目を見開いたまま硬直している。拒絶しようにも、声も、力も出ない――。
そして、彼の喉がゴクリと鳴った。
「はっ」
水を呑み込んだのを確認するとビリーはジルの口を解放した。それを数回繰り返す。その間、不思議と彼は大人しかった。
やがて、ジルは疲れ果てたのか、ゆっくりと瞼を下ろし寝息を立て始めた。
その様子を見て、ビリーは深く安堵の息を吐く。同時に、今自分のしたことを振り返った。
――さすがに、まずいのでは
今のはあくまで医療行為だ。水を飲ませるために仕方なくしたことだ。そう自分に言い聞かせる。しかし、隣にいるディアが自分をじっと見つめている。そんな気がしてならなかった。
いたたまれなくなったビリーは、器を片手にそそくさと部屋を出ようとした。だが、ディアがそれを引き留めた。
紫水晶の瞳が瞬きもせず見つめてくる。その圧にビリーは怯んでしまう。
「貴方の行動は不可解だわ。どうしてそこまで、ジルを助けようとするの?」
問われたビリーも、最初は分からなかった。
けれど、心当たりはある。あの目だ。
あの空虚な目が、頭から離れない。彼女を、思い出して――。
「……ねえビリー。私と一緒に死んで。」
震える声で彼女は言った。その手に握られたナイフが、俺に向けられている。
おぼつかない足取りで迫り、その切っ先が喉に触れようとした瞬間――
俺はナイフを握る彼女の手を、強く振り払った。
現実から、逃げた――。
ビリーの婚約者だった女性、アイシャ。
その後、彼女は保安局に拘束され、収容所の医療施設で命を落とした。
その過去が、数年たった今でもビリーの心に深く影を落としている。
ジルはその時の彼女と同じ目をしていたのだ。
関わらないと、そう決めていたはずだったのに。どうしても、あの目を放ってはおけなかった。
「俺は……ジルを救うことで、赦されようとしているのかもしれない」
彼の不幸を利用している。そう思うと、自分が最低で後ろめたい気持ちになった。
「そう。なら……私は貴方を利用するわ」
「は……?」
ディアの言葉に理解が追い付かず、思わず気の抜けた声が出てしまう。そんなビリーに構わず、ディアは続けた。
「私は、人への理解が浅い。今回のことで、そう身に染みたわ。私がジルにできることは、とても少ない。でも、私にできないことを、貴方はできる」
ジルを助ける動機はどうでもいい。ただディアは、ビリーを“信じる”と言葉にした。そして告げる。
「ジルをもし裏切ったら、貴方を許さない」
あまりにも一方的な言葉の羅列、その理不尽さにむしろ、彼女らしさを感じた。
そして、ビリーもここまで来たら手を引く気はなかった。
今は最低でも、彼の生きる道を示すことができたなら――
ディアの訴えかけるような瞳を、ビリーは真っ直ぐ見つめ返した。
それから数日、ビリーはジルを介抱するためユアンの家に足しげく通っていた。
用意された飲料水を、ジルが拒否するたびに口移しで飲ませた。その行為に慣れてきたころ、飲料水は優しい味付けのスープに変わり、ジルは自らスプーンで口に含んだ。
やがて人並みの食事ができるようになると、ビリーはあることに気づく。
――肉を残してる。
アニーが用意している毎日の食事は、バランスよく食べやすいよう調理されている。小食なジルに合わせて量は控えめに、それでもいつも何かを残していた。その中でも、必ず残っていたのが肉を使用した料理だ。
「ジル、肉もちゃんと食べないと」
だが、ジルは食べたくないと首を振った。“食べれない”わけではないようだ。ビリーは一口だけでもと子供にするように、小さく切り分けたミートボールを彼の口に入れた。ジルはゆっくりと、一度だけ咀嚼する――と、小さくえずき、口内のものを吐き出した。嘔吐中枢を刺激したのか、食べ終わっていた胃の中のものまでぶちまけてしまった。
慌てたビリーは、ジルの背中をさすりながら、ディアに吐瀉物を拭くものをもらってくるよう頼んだ。
「……気持ち、わるい」
ジルは肩で息をしながら呟いた。深く項垂れ、髪に隠れてその表情は見えない。
「す、すまない……そこまでとは思わなくて」
その苦し気な様子に、ビリーは心底申し訳なく思った。
おそらく心的障害により肉を受け付けないのだろう。
その後ビリーは、動物性ではなく植物性たんぱく質に切り替えてもらうようにアニーの頼んだ。
更に日を重ねると、ビリーはジルの性質を少しずつ理解するようになる。
かなりの暑がりのようで、薄手のシャツを一枚引っかけているだけのことが多い。これは後にディアに聞いた話だが、ノーアがエリウズよりも都市内の温度が低かったことに影響しているようだ。
また、好き嫌いがはっきりとしている。肉を気持ちが悪いと吐き出してしまうジルだったが、豆は好物なようで、率先して食べていた。ことさら林檎には目が無く、偏食のきらいがある。
彼の態度に注視していると、不意に声を掛けたり体に触れるとき、やや怯えたような仕草を見せることがあった。一瞬体をこわばらせるも、すぐに悪態をつくのだが――
最初にディアが言っていた、『臆病だから虚勢を張る』という言葉が分かったような気がした。
ふと、その時の会話を振り返る。そして、放置されたままだった疑問を、ディアに投げかけた。
「そういえば、前に君が言ってた“俺のため”ってどういうことだったんだ?」
ディアは何のことかと首をかしげた。
「ほら、初めて会った時。ジルが俺に言ったことに、君がフォローを入れた」
「ああ」
そのことかと、ディアはようやく理解した。
「あの子がそう忠告したのは、貴方を傷つけないためよ。貴方のような体躯の男は、ジルにとって天敵だから」
ジルは、自分より背の高い男に強い警戒心を持っている。そうディアは説明した。
『俺の後ろに立つな』――それは、無害な相手であっても反射的に危害を加えてしまうかもしれないと、ジル自身が考えた予防策だったのだ。
それを聞いたビリーは、ジルという人物の認識を再び改めた。
初対面の時に見せた凶暴性は、ただの強がりだったのかもしれない。不器用なりに他人との距離を測ろうとしていたのだと。
年齢よりも幼さを感じさせる彼が、人を――親を殺すにまで至った理由。その奥にある歪みが、ますます気にかかる。けれど、どこまで近づいていいのか分からず、ビリーは躊躇った。
そもそも、自分は彼の何者でもない。
そう思い至ったとき、それまでの思考を振り払うように、ビリーは小さく首を振った。
