Corrupt ≪Int: ###≫

Novel1

 セントラル・ノーアの一室。
 薄明りの中で、熱の交わる湿った音が、静かに室内を満たしていた。
 「――アッ……は……っ」
 節くれだった手が、若い躰を弄ぶように這いまわる。肌の感触を愉しみながらゆっくりと、特に敏感な部分に指が触れた瞬間――
「――ッ」
 ジルの躰がびくりと跳ねる。声にならない悲鳴を漏らし、熱い吐息が漏れた。
夕暮れ色の瞳は潤み、土気色の肌に微かな紅が差している。
汗に湿ったシーツを握りしめ、悪夢のような夜を、今日もまた耐え忍んだ。
 

 静寂に包まれた部屋の中、水音が響く。
 正面に鏡を備えた洗面台。ジルはその白い陶器に手を突き項垂れていた。
 体が重い。目の前がぐらぐらと揺らぐ。喉の奥から湧き上がる不快感が抑えきれずに吐き出された。
「――っ、くそ……」
 吐き気が収まらない。喉がえずくたびに咳が込み上げる。
 ひとしきりの嘔吐の後、焼けるような喉に手を添える。肩で呼吸をしながらジルは吐瀉物を洗い流した。
 ディアは柱の陰から静かに様子を覗っていたが、やがて小さく声を掛けた。
「ジル、大丈夫?」
 心配そうに覗き込む彼女を一瞥すると、ジルは何も言わずにベッドに向かい、そのまま倒れ込む。
 先刻の情事に痛む体を休めるように、柔らかな寝具に身を委ねた。

 
 ノーアの貧民街――スラムの片隅でジルは生まれ育った。上層街の貴族を相手に躰を売ったり、盗みを働いたり。そうして泥の中を生きてきた。
 彼にスラムでの生き方を教えた人物はこう語った。
『俺たちがこんな生活を強いられるのは、全てマザーのせいだ』
 ジルはその言葉を信じ、日々マザーへの恨みを募らせていた。

 スラムでは時折、縄張り争いが起こる。ジルが自ら争いを仕掛けることはなかったが、売られた喧嘩は買い、近年では負け知らずだった。
 そんなジルの姿が、たまたまスラムへ視察に来ていたレジスの目に留まった。
 彼は貧民に対しては破格の報酬を餌に、ジルを監視人に勧誘したのだ。
 レジスの邪な考えなど知る由もなく、ジルは絶好の好機だとこの誘いを受け入れた。
 組織に入り込めれば、容易くマザーに近づける――近づきさえすれば、壊すことなど簡単だ。
 だが、蓋を開ければ全ての元凶はマザーではなく、セントラル・ノーアという組織そのもの――人間の欲であることを、ジルは知った。
 そして、ジルの憎悪はマザーからレジスへと対象を変えた。従順なふりをして、いつかその首を食い千切るために――。
 
 
 白く細い指先が、ベッドに横になっていたジルの髪にそっと触れた。
 露わになった左目の瞳孔は、光を捉えることなく開き切っていた。それは、彼が幼い頃に父親から受けた暴力の痕跡だった。
「――っ……やめろ」
 眩しさに顔をシーツにうずめる。
 ジルの左目は、わずかな光にも過敏に反応する。そのため、目を隠すように前髪の左側を長くのばしていた。
 ディアはジルの髪から手を離し、彼の放り出された左手に指を絡める。
 ジルは何も言わないが、彼女の人の体温とは違う冷たい手は、彼にとって心地よいものだった。
 さっきまで躰にまとわりついていた熱が、感触が薄れていく。不快感が和らぐと、ジルはゆっくりと眠りの底に落ちていった。

 ジルは度々悪夢にうなされた。この日のように、躰を暴かれた後は特に酷い。
 額に大粒の汗を浮かせ、胸を掻きむしるように苦しみ藻掻く。乱れた呼吸の合間に、かすれるような声で懇願する。
 ――父さん
 ――やめて
 ――ごめんなさい
 漏れ出す言葉の内容から、現在ではなく、過去の夢を見ていることが分かった。
 冷たい手で汗の滲むジルの額をそっと撫でると、やがて乱れていた呼吸が整っていく。
 自分の手が、彼を癒している――そう気づいてから、ジルがうなされるたびに、ディアはこうして彼の手を握るようになった。
 けれど、悪夢から完全に守ることはできない。
 ……もどかしい。
 ディアの冷たい手にできるのは、彼の苦しみを和らげることだけだった。