#004: Reset

Novel1

 西の空に陽が沈む。
 赤く染まった夕空は、やがて瑠璃色の夜に呑み込まれていった。
 星々が瞬く中、満ちた月が静かに地上を照らしている。
 この先もずっと、そんな何気ない夜を越え、いつもと同じ朝がくる

 ――そう、信じていた。

 ***
 
 この日は、エリウとスケジュールが合わず、顔を合わせないまま夜が更けた。自宅のベッドで微睡んでいると、不意に耳元で呼び出し音が鳴る。
 重たいまぶたを持ち上げ、発信元を確認する。
 ――その瞬間、ぼやけていた脳が一気に覚醒した。

 ≪Caller ID CODE-ME Elysium≫

 見慣れない文字列、けれど、その名に覚えがある。
『ボクの名前、正式にはエリュシオンって言うんだ』
 ――間違いない。エリウだ。
 でも、彼からコールが届いたのは、これが初めてだった。
 ふいに、かつて聞いた言葉が脳裏をよぎる。
 “いつか”は必ず来る――。
 不安と焦燥が、冷たい波のように身体中を駆け巡る。
 近くにあった服を手に取り、震える手で着替えを済ませ、家を飛び出した。車を飛ばし、セントラル・エリウズへ。
 見慣れたエントランスを駆け抜け、彼のいる部屋の扉を乱暴に開け放った。
 そこには、白衣の技術者たちと、リサ。
 その中心に、彼はいた。

 無数の管に繋がれた大きな椅子に、エリウは腰かけていた。
 瞳を閉じ、穏やかな表情で。
 まるで――眠っているようだった。
「同期完了。バックアップ、正常に終了しました」
「……あとは、よろしくお願いします」
 淡々とした声を残し、技術者たちは僕たち三人を残して、部屋の外へと姿を消す。
 静寂が落ちた。
「これはいったい……リサさん、エリウはどうしたんですか?」
「……ユアン、落ち着いて聞いてください」
 僕の問いに、リサはゆっくりと顔を上げる。その表情・声色が、状況の深刻さを示していた。
 心の準備が追いつかないまま、彼女は告げた。
「エリウのコア領域から、ウイルスが検出されました。重要なデータのバックアップが先ほど完了し、これから彼の人格を――初期化します」
 視界が揺らぐ。
 地面が波打つような感覚。
 脳が、その事実を拒んでいた。
 言葉を発せずにいる僕に、リサが続ける。
「マザーとウイルスの件、エリウから聞いていますね? ――彼はユアンに、どうしても頼みたいことがあると。自ら、貴方を呼び出したのです」
「……僕に?」
「ええ。まもなく、エリウは目を覚まします。どうか、彼の頼みを――聞いてあげてください」
 リサは深く頭を下げ、そのまま静かに部屋を後にした。
 白く、無機質な部屋。
 広すぎる空間に、残されたのは二人きり。
 今にも崩れそうな心を、必死に鎮めながら。
 僕は、彼が目を覚ますのを――息をひそめて待った。

 エリウの体にそっと耳を寄せると、微かに機械の駆動音が聞こえた。人とは違う、熱のない音――けれどその響きに、不思議と心が凪いでいく。
 不意に、彼の手がかすかに動いた。紫水晶のような瞳が、ゆっくりと開かれる。
「エリウ、わかる?僕だよ」
「……ユアン、来てくれたんだね――ふふっ、なんて顔してるんだい」
 微笑む彼の手が、膝をついていた僕の頭を優しく撫でた。このときの僕はきっと、情けない顔をしていたのだろう。
 声を掛けたくても、言葉が出てこない。どうすればいいかわからず、僕はただ、うつむくしかできなかった。
「ユアン、顔を上げて。キミに、頼みたいことがあるんだ」
 そっと視線を上げると、エリウの冷たい両手が僕の頬を包み込む。
 その瞳は、悲しいほどに優しかった。
「ボクの、最後のお願いを聞いてほしい」
「……願い?」

「キミの手で、ボクを――初期化してほしい」

 一瞬、意味がわからなかった。
 その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
 ――キミの手で。
 
 僕の……手で?
 
 その意味を理解した瞬間、体が熱が一気に引いていった。
「……っ」
 喉の奥に押し寄せる感情。吐き出したくても、声にならない。
 エリウは、震える僕の手を触れるように握った。
 「偶然じゃなかったんだ。ボクはずっと、キミを見ていた。ここの警備ワーカーにも、よく声をかけていたよね?だからあの日、キミと話がしたくて……でも、話してみてわかった。キミは、思ったとおりの人だった。ボクを、理解してくれた」
  ゆっくりと、自分に言い聞かせるように、彼は続けた。
「……自分を消すことが、こんなに怖いなんて思わなかった。でもボクは、この都市を、人を、そしてキミを護る。これからもずっと――。ボクが消えても、新しい『ボク』が、この意思を引き継いでくれる。どんなに怖くても、辛くても、前へ進める。……大丈夫だ」
 涙があふれる。拭っても、拭っても、止まらない。この涙はきっと、僕だけのものじゃない。
 
「頼むよ、ユアン……」
 
 乞われるままに、僕は震える指先で、人格格納コア領域の初期化ボタンに触れた。
 眼前に浮かぶホログラムモニターには処理状況が映し出された。プログレスバーが、じわじわと右に伸びていく。その様子を、僕はただ、茫然と見つめていた。
 やがて、進行率が100%に達する。

 ――僕はこの手で『エリウ』を消した。

 *
 
『この都市を、人を、そしてキミを護る』
 ――僕の『心』は?
 ――僕が傷つくことは、考えなかった?

 結局、君は……人の心なんて理解しない機械だった。
 人も機械も変わらない――そんなふうに思っていた僕が、馬鹿みたいだ。
 こんな思いをするぐらいなら、関わらなければよかった。
 出会わなければ……。

 リサさんの言うように、全て忘れて日常に戻ろう。
 全部……君との想い出も、何もかも全て消して。
 
 *
 
 「できるわけ……ないじゃないか――」
 
 あの瞬間から、どれくらいの時間が経っただろうか。
 自室のベッドの上に横たわり、僕は虚空に呟いた。
 懐かしむように、愛おしむように、モニターに映る二人の写真を指でなぞる。
「君がいたこの証を、君が残した傷跡を、無かったことになんて……」
 写真をスライドしていくうちに、見覚えのない一枚が目に留まった。
「流れ星……これ、あの時の……」

 ――エリウは、何を願った?
 ――キミの――幸せを

 いつかの記憶が脳裏に映し出される。忘れることのできない、大切な思い出。叶えたい願い。
 けれど、僕にはわからないことがある。
「僕の幸せって何だろう」
 結婚して、家庭を持って、子供を育てて……きっと多くの人がそう口にする。けれど、僕には全然ピンとこない。

 それだけじゃない。
 
 どうして彼は、僕の手で初期化されることを望んだのか――。
 どうして僕は、その望みを受け入れてしまったのか――。
 
 僕は、エリウのことも、自分のことも、何ひとつ理解なんてできていなかった。
 ……けれど、ひとつだけ確かなことがある。
 彼は都市のために、人のために、そして――僕のために消えた。
 なら、僕がすべきことは……。
「君の、意思を繋ぐ……」
 エリウが消えても、彼が護ったものは続いていく。人も、マザーも、この都市も。
 僕は、それを見届けたいと思った。
 ――君のように。

 その日から、僕は彼と同じ景色を見るために、セントラル・エリウズへの入局を目指した。
 早くに学びの道を外れた僕は、独学で知識を積み重ね、資格を得る頃には二年の月日が経っていた。
 これから僕は、君と同じ景色を見て、君が護ってきたものを護る。

 その先で、僕の知りたい答えが見つけられると信じて――。